のは、郵便ポスト――だったじゃありませんか。毛唐は真逆日本のお婆ちゃんがと油断してかかったのだろうけど、四月一日であってみれば、怒るに怒れず頭を掻いて逃げて行ったわ。』
『そいつあ豪気な話だ。なる程、四月馬鹿とは、嬉しい習慣だね。そう云うことならよろしい。今日は一つその手を用いて、会社の木偶共も片っ端から落してくれるかな。』
『タイピストや、電話姫《ミス・ハロウ》なんかばっかり落としちゃうんじゃないの?』
『まさに図星と云うところかも知れないね。』
『大人気ないわ。』
『本気になりなさんな、自分で仕込んで置きながら。万事四月一日だ。』文太郎君は仕立下ろしの春外套《トップコート》を羽織ると、それでも毎朝と変らぬ真心こめたベエゼを、エミ子に捧げて威勢よく玄関へ出て行きました。そこで、ピカピカに爪先を光らして揃えてあった編上靴を穿きかけたのですが、どうしたものか却々《なかなか》手間どれるのです。
『もう、九時を廻って居てよ。早くなさらないといけないわよ。』
『うん。だって、今朝は随分早そうな陽の色なもんだからそれに、どうしてこう人通りが少いのだろう。エンミイは時計の針をやたらに、廻して置いたんじゃないかい?』
『疑う?』
『やっぱり早過ぎるんだろう。漸く七時半位のものかな。でも、どうせ今日は繰り越し仕事が溜っているんだから、偶《たま》には早出も信用を取り返していいだろうさ。……おや! どうも先刻から此方の足が入らないと思っていたら、両方とも右足じゃないか! ちえッ、四月の馬鹿野郎め! 御丁寧に古靴なんか持ち出しやがって!……』文太郎君は三和土の上に靴を投《ほ》うり出すし、エミ子さんは仏蘭西《フランス》鳩のような声を出して笑いました。恰度その折から、電話のベルが鳴りました。
『ハイハイ。こちら兎沢でございます。……おや、山崎さん、お早ようございます。ええ、ただ今、靴をはいているところで……文ちゃん、何を寝ぼけたことか、こんなに早々と、おホホホ……。え? 何でございますって? 今日会社お休みですって? まあ、いいえ、ちっともそんなこと申して居りませんわ。はあはあ、南京鼠の改良種をね。まあ、左様でございますか。え? ちょっと、お待ち下さいませ。』
エミ子は、電話口を手で蓋して、如何にも吃驚したような顔で文太郎君に詰問しました。
『文ちゃん。今日お休みだっていうじゃありませんか? どうしたって云うこと? あなた知らなかったの?』
『そ、そんな馬鹿な!』あらためて、正しく左の靴を穿き終った文太郎君は、些か面喰った様子ではげしく首をふりました。『とんでもない、何もかも、みんな四月馬鹿だ!』
『だって、山崎さんたら、今日、文ちゃんと南京鼠の競進会を見に行く筈だったって、そう云ってるの……』
『な、な、何が、南京鼠だい! もう沢山だ。四月馬鹿、四月馬鹿!』文太郎君は、ステッキを引つかむと、身をひるがえすように外へ飛び出して行きました。
『待ってよ。文ちゃん! 文ちゃん! お待ちなさいってば!……』エミ子は周章てて、受話器をかけて、門口迄追いかけたのですが、文太郎君は一散走りに通りへ曲って行ってしまいました。
富士山が見える媾曳
エミ子は不安な予感にかられました。そう云えば、今日から新しく春外套に着かえたし――四月になって冬外套も着ていられまいと云えばそれ迄だけれども、併し何時だって、抱えて出る筈の折鞄《フォリオ》も、今日に限って置いて行ったし、こんなに早過ぎることを承知で周章てくさって飛んで行ったのは――エンミイが四月馬鹿にしようと思って時計をすすませて置いたのを、気がついていながらワザといいことにして、出掛け迄黙っていたらしいことは確かだ。
疑ってみれば、疑える節々が思い当らないでもなかったのです。直ぐ会社へ電話で問い合せてみようかとも考えたのですが、夫の勤め先が休みか否か解らないでいるなんて、そんな恥しい、可哀相な女房になるのは、自尊心が許さなかったので止すことにしました。
エミ子はしょんぼりと、茶の間に坐って考え込んでいましたが、やがて帯の間に挾んだ手を抜いて、思いついたように夫の置いて行った折鞄を開けて、中味を仔細に点検してみました。昨日の夕刊が二枚と、『探偵小説全集』が一冊と、『南京鼠の合理的長命法』と云うパンフレットと、古い帝国ホテル舞踏会の案内状が一枚出て来たばかりでした。
エミ子は、それから、文太郎君が昨日迄着ていた冬外套を持ち出して、ポケットをすっかり裏返して見ました。
ところが、胸のポケットから、手巾《ハンカチ》と一緒に小さな紙片のまるめたのが飛び出して来たので、その皺をのばして見ると、それは会社の便※[#「竹かんむり/銭のつくり」、第4水準2−83−40]紙で、何と次のような片仮名が、電報みたいに並んでいるの
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