、思い諦めて江の島遊園地を引き上げました。
 東京へ帰ると、もう日が暮れていました。高架線の上から銀座の灯を眺めた時、エミ子さんはほんの少し元気になりました。
『お雄坊、お腹が空いたでしょう。あたし、些も気がつかなかった。ご免なさいね。』
『うん、まるで破れた大太鼓みたいに空っぽになった。』
『いいわ。サンタモニカの晩御飯を御馳走して上げてよ。』
 そこで、東京駅から銀座裏へ引っ返して温い西洋料理の食卓につきました。雄吉君は、食後にウイスキイを二三杯ねだって飲まして貰うと、俄かに勇気を出しました。
『実はね、先刻から訊こう/\と思っていたんだけど、此の頃エミちゃんの処で、誰か赤ちゃん生んだ人ない?』
 と、雄吉君は赤い顔をテラテラさせながら、突然そんなことを云い出したものです。
『赤ちゃん? あたしでも生まなけりゃ、真逆、ブン大将が生む訳はないでしょう。莫迦なことを云うもんじゃなくってよ。』
『うん、僕もエミちゃんのお腹を見て、妙だと思ったんだけど――変だなあ、でも、まあいいや。』
『どうしてそんなこときくの?』
『……』雄吉君は、飛んでもないことを云い出して、ひどく困ったと云うような顔をしました。
『え? 誰かそんな噂でもしたの?』
『ううん……どうだっていいことなんだよ。』
『いいこたあないわ。はっきり仰有い。……云わないの? じゃあ、もう聞かないわ。』
『困ったなあ。実は一週間ばかり前に、文太郎さんと銀座で会って、一緒に富士屋でお茶を飲んでいたら、恰度其処へ来合せたお友達らしい人へ文太郎さんが、これは未だ内証なんだがね。今度とても素晴しい子供が生まれたよ。四月一日には誕生祝賀会をやるから是非出席してくれたまえって、云っていたんです……それで、「赤ちゃんが生まれたんですか?」って僕が聞くと、黙ってニヤニヤ笑っていたけど……だから。』
『あんた! あたしの子だと思ったの?』
『ええ。だから、エミちゃんから電話をかけられた時には吃驚したんだけど、でも、僕なんかに解らないことがあるかも知れないし、僕は何だか、エミちゃんが可哀相になっちゃって』
『大きなお世話よ。――あたし、もう帰るわ。左様なら。』
 エミ子は、呆気にとられている雄吉君を置いてサッサと食堂を飛び出しました。
 ところが――エミ子が、文太郎君の怪しい所業の数々に身も世もなく心細くなって、誰もいないところで精いっぱい泣き度い程の気持で、家へ帰ってみると、さて文太郎君が凡そ上機嫌で彼女を抱きかかえてくれたのです。
『江の島の春はよかったかい?』
『まあ! 知らないわ……』エミ子は夫の腕の中で身もだえして泪にむせびました。
『エンミイが江の島へ行き度い/\って、せがむからさ。』
『誤魔化そうとしても駄目々々。あたし、あの便※[#「竹かんむり/銭のつくり」、第4水準2−83−40]の文句を読んだのよ。』
『エノシマヲフタリッキリサンポスルノイヤ? フジサンヤウミノミエルアイビキ!……五字ずつ飛ばして読んでごらん。エから五字目がフ[#「フ」に傍点]、フ[#「フ」に傍点]から五番目がリ[#「リ」に傍点]……ルそれからフ[#「フ」に傍点]、ウ[#「ウ」に傍点]、ル[#「ル」に傍点]……四月馬鹿さ。はっはっはっ……』
『あら!……』
『僕が今日何処にいたかってことは、エンミイの大嫌いな南京鼠協会へ問い合せれば直き解かるよ。実は、僕がエンミイに内証で手がけた南京鼠が迚も素晴しい新種の子供を生んで、それが首尾よく仏蘭西へ輸出する見本として通過したので、今日は大祝賀会が開かれ、僕は、その上、巴里のシュバリエ商会から五千円の権利金を貰うことになったんだよ。……これは、正真正銘の本当だ。四月馬鹿じゃないから安心おし。お前の大嫌いな南京鼠のお蔭で、今度の日曜あたりには、伊豆の温泉へでも何処へでも遠出が出来ると云うわけさ。』
『いいん、いんいん、いんいん……』エミ子は文太郎君の胸に顔を埋めて、思いのたけ泣いてしまいました。



底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
   1970(昭和45)年9月1日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ、土屋隆
2008年10月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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