あらためた。ところが彼が見とめ得たのは二十才にも満たない紅顔の美少年だった。水夫は愕然とした。『旦那、どうぞ許しておくんなさい。私はとんでもない間違をするところでしたよ……』
17[#「17」は縦中横]
『ピストルを蔵って家へ帰り給え。さもない時には君の為にならないぜ。』ドリアンはそう云うと、踵を返して静かにその場を遠ざかって行った。ジェームス・ヴェンは恐しさのあまり甃石の上に立ちつくした。彼は爪先から頭の天辺迄慄えていた、しばらくすると其処の濡れた壁にへばり着いていたような黒い影が明るみの中に現われて、こっそりと彼に近寄って来た。それは阿片窟の酒場にいた女の一人であった。『何故彼奴を殺さなかったんだい?』と彼女は声をひそめて云った。『妾はお前が彼奴をつけているのを知っていたんだよ。何と云う馬鹿だろうね、お前さんは。殺せばいいのにさ、彼奴は何しろしこたまお金を持っている上に、またひどい悪なんだからね。』『人違いだ』と彼は答えた。『俺は金なんぞは欲しくねえ。俺の欲しいのは男の命だ。そいつはどうしたってもう四十近い年輩の筈だ。あんな小僧っ子じゃねえ。だが、血を流さなかったのは全く神様のお蔭よ。』女はけたたましい声で笑った。『小僧っ子だって? 冗談じゃないよ。プリンス・チャーミングが妾をこんな目に遭せてからざっと、もう十八年からになるんだからね。』『嘘を吐け!』とジェームスは叫んだ。『神様かけて!』『誓うのか?』『誓うともさ。』彼は凄じい唸声と共に街角へ走った。併し夙にドリアンの姿は暗にまぎれて消えていた。そして後を振り返った時には女の姿もまた消え失せていた。
18[#「18」は縦中横]
それから一週間程して、ドリアンはセルビイ・ロイヤルの植物室で、そこの硝子窓に白い手巾《ハンカチ》の如くに貼りついて彼を瞶めているジェームス・ヴェンの顔を見出して気を失って倒れた。それ以来ドリアンはことごとに怯かされた。彼は終日部屋に身をひそめていた。風の動く壁掛の影にも戦《おのの》いた。眼を閉じさえすれば、霧に曇った硝子窓から覗き込む水夫の顔を見た。云い知れぬ恐怖が彼の心臓をつかんだ。その上また彼が犯した血塗れの罪悪は暗い部屋の隅から絶えず彼に呼びかけ、彼を嘲笑い、そして氷のような指で彼の眠りを揺り起した。彼は蒼ざめ、果は狂気の如くに泣いた。併し彼は強いて覚束なくなりかけた心と争った。彼は取るにも足らない良心の脅迫を軽蔑したかった。朗らかに晴れて松の香の漲った冬の或る朝、彼は久し振りで馬を駆って狩猟の仲間に加った。空気は香り高く、森は赤と鳶色の光に輝き、勢子《せこ》のどよめき、鋭い銃声は新鮮な自由の歓びに充ち溢れていた。ドリアンは気も軽々とモンマウス公爵夫人の弟のジョフレイと並んで進んだ。
突然彼等の前方二十|碼《ヤード》程のところの草むらが揺れたかと思うと、一匹の黒い耳の兎が飛び出した。ジョフレイは素早く銃を肩に当てがってそれを覗った。『待ち給え!』と我ともなくドリアンは叫んだ。だが既に遅かった。二つの叫び声が聞えた。兎のそれと、凄じい人間の悲鳴とであった。
19[#「19」は縦中横]
ジョフレイ氏に依って撃ち殺されたのは他ならぬジェームス・ヴェンであった。ドリアンはそれと知って身を慄わした。ドリアンは倫敦を去って静かな田舎にかくれた。そこの小さな宿屋の一室に籠って、新しい生涯の第一歩を踏み出し度かった。ドリアンは美しい村娘のヘテイと恋に落ちた。彼女はまるでシビル・ヴェンの如くに優しく愛らしかった。ドリアンは真実ヘテイを愛した。到頭二人は或る日林檎の畑の中で明日の夜明けに手をとりあって村から逃げ出す約束までした。併し、ドリアンは娘の身の幸せを考えて娘を置きざりにしたままひそかに倫敦へ帰った。『……僕は彼女を矢張り何時までも花の如き娘として残して置き度かったのだ。』とドリアンはその話をヘンリイ卿に打ち明けた。
『物語風の動機が君に悦びを与えただけの話だね。』とヘンリイ卿は笑った。『君の生活改善なるものも甚だ怪しい次第さ。彼女は君の善き忠告に依って無残に胸を引き裂かれたことだろう。』『そんな莫迦な! 勿論彼女は泣いた。併し彼女は汚れてはいない。彼女はペルデイタの如くに彼女の花園で薄荷と金仙花の間で生活することが出来る……』
『ふっ、何と云う君は子供だろう。その娘はやがて馬車曳きか百姓と結婚して、そして君から教えられた通りに彼女の夫を欺き、立派な生涯を送ることに違いあるまい。……それはそうと、ベエシルの失踪とそれからあのキャンベル君自殺事件を知っているかね?』
20[#「20」は縦中横]
過去ったことはどうなるものでもない。自分自身と未来について考えなければならぬ。ジェームス・ヴェンはセルビイの墓地に名も知られずに葬られたし、アラン・キャンベルは自分の研究室でピストル自殺を遂げたし、ベエシル・ハルワアドの失踪も永遠の秘密としてやがて人々から忘れ去られるだろう。新しき生活! ドリアンの希うのはひたすらそればかりだった。そして、ドリアンは既にその一歩を踏み出していたのだった。彼は村の娘ヘテイに対する心づくしを考えた時、ひょっとしてあの肖像画に、新しい変化が生じていないものでもないと思った。少くともこれ迄よりも兇悪なものではなくなっている筈だ。おそらく悪魔の面影だけは消え去っていることであろう。ドリアンは周章ただしくランプをとって階段を上って行った。そして素早く中へ這入ると何時もの如くに後に扉を閉して、さて絵姿に掛けられた紫の覆を引いた。その途端に彼は苦痛と憤怒の叫びを発した。絵姿は少しも変っていないばかりでなく、その眼は新に狡猾な色を湛え唇は偽善の皺に刻まれて一層醜く歪んでいたではないか! ドリアン・グレイは絶望のあまり曾てベエシル・ハルワアドを刺した同じ短剣でその絵姿を刺し貫いた。すると、それと同時にドリアンは恐しい叫喚とともに打ち倒れた。物音を聞きつけた人々がその部屋に入って来た時、人々は美貌の少年の絵姿の前に、夜会服の胸を刺し貫いて倒れている醜い陰惨な人相をした男の死体を発見したのであった。
底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」1928年11月(二回分載)
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
2001年10月8日公開
2007年10月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
渡辺 温 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング