るまい。』
ドリアンは、そう云い捨てると泣き沈んでいるシビルを残して立ち去った。
9
――真実であろうか。肖像画が変化を生ずるなんて、そんな事実がこの世に有り得るであろうか。それともそれは単なるたあいもない幻想がその朗かであるべき容貌をひょっとして忌しいものに見せたに過ぎないのだろうか。……だが、それはあまりにまざまざとしていた。最初は覚束ない薄明りの中で、次には輝しい曙の光の中で、ドリアンはれいのハルワアドの画いた肖像画の歪んだ唇の辺に漂う冷酷な蔭を見たのであった。彼は恐しかったが、併し、それをもう一度確めなければならないと考えた。そこで彼はひそかに部屋にこもって、その肖像画の前に立った。そして恐る/\絢爛たるスペイン革の覆いを除けて、彼自身の姿と向き合った。果して、それは幻ではなかった。肖像画は明らかに変っていた! 彼は慄然として長椅子に身を落としながら、その画像を云い知れぬ恐怖を以て瞶めた。彼はシビル・ヴェンに対して如何に無慈悲で残酷であったかを思い出して慚愧の念に心を噛まれた。彼はあらためてシビルと結婚したいと思った。それで程なく訪ねて来たヘンリイ卿の顔を見ると、直ぐにその決心を打ち明けた。するとヘンリイは額を曇らして云った。
『君の妻だって※[#疑問符感嘆符、1−8−77] ドリアン! では君は僕の手紙を未だ見なかったのだね?』
『手紙? そうそう、ごめんなさい。未だ見ずにいました。』
『シビルは死んだ。』とヘンリイ卿は云った。
『昨夜十二時半頃あやまって毒を、青酸か何かを飲んだらしいと今朝の新聞に出ていた。』
10[#「10」は縦中横]
ベエシル・ハルワアドもまたシビルの死を知ったのでドリアンを訪れた。そして、ドリアンの口から彼女の死が自殺であることを聞かされて、彼のあまりにも冷酷な振舞いをいたく心外に思った。『だが、ドリアン。』と彼は悲しげな微笑を浮かべて云った。『もうこれっきり、この恐ろしい事件について語るのを止そう。僕はただ君の名が、それに拘り合いにならなければいいと思うのだが。『大丈夫。』とドリアンは答えた。『ただ洗礼名だけだが、それだってシビルは誰にも話さなかったに違いない。彼女は僕の事を何時もプリンス・チャーミングと呼んだ。却々可愛いではないの。……そこでベエシル、彼女の僅かばかりの接吻と口説との思い出に、一つ彼女の姿を画いてはくれまいか。』『お望みとあらば、画いてもいい。但し、それには矢張り君自身がモデルになってくれなければいけない。』『それは困る!』画家は吃驚《びっくり》した。『君は僕の画いた絵を好まないとでも云うのか? あの絵はどうした? どうして、君は、その様な覆いをかけて置くのだ? 見せ給え。』
ドリアンは恐しい叫びを上げて画家の前に立ち塞がった。『いけない! 断じて! 強いて見ようと云うならば僕達の間はもうこれ迄だ!』
『ドリアン!』
『黙り給え!』ドリアンは頑強に拒んだ。
そして彼はその日の中に、その肖像画を階上の廃れた勉強部屋にこっそりと移してしまった。
11[#「11」は縦中横]
幾許かの歳月が流れた。併しドリアン・グレイの容色の煌《かがやか》しさはさらに衰えを見せなかった。そして倫敦中の社交界や倶楽部なぞに於て、彼の身の上に関する最も不名誉な怪しむべき噂を耳にした人々でも、一度彼を見てはその誹謗を信ずることをやめた。彼こそは常にこの世の如何なる汚れにも染まらずにいるように思われたからである。彼の姿は人々の心の中に曾ては自分たちも持っていたところの純情を思い出させた。ドリアンは屡々姿を晦《くら》ました。さまざまな憶測は概ねそんなことに生まれた。そして長い不在から帰って来ると、ドリアンは必ず秘密の部屋へ通ずる階段を上って行った。部屋の鍵は何時も肌身を離さなかった。ドリアンは其処で、ベエシル・ハルワアドの画いた己れの絵姿と向き合って、更に鏡の中に本当の自分の姿を映して見比べているのであった。まことに驚くべきその対照は彼の感覚を無上に楽しませた。彼は自分の美貌に見惚れれば、更に一層深く自分の魂の堕落に興味を覚えたわけである。彼は丹念にあらためながら、時にはひからびた額に刻まれた険悪な皺や、陰欝な口の辺に生々しく這う線に不気味な凄惨な悦びを味い、また時にはそれらに表われた罪悪の徴と歳月の痕と、果して何れがより恐しいかと訝しむこともあった。
善美を尽した宴と、香わしい夜の部屋と、変装の冒険と、波止場の怪しげな旅籠の一室とにドリアン・グレイの不思議な生活は続いた。
12[#「12」は縦中横]
それは九月九日、ドリアンの第三十八回目の誕生日の夜の事であった。
ドリアンはヘンリイ卿の晩餐に招かれてその帰りがけに、霧深い町角でゆくりなくもベエシル・ハルワアドと出逢った。画家は今迄ドリアンの邸で彼の帰りを待っていたのだった。画家は、製作のために夜中の汽車で巴里《パリ》へ立ったのだが、その前に是非とも彼に話さなければならないことがあるのだと云った。そこでドリアンは止なく画家を伴って帰った。既に晩かったので召使等は寝ていたが、ドリアンは自分で※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》を外して入った。
『話と云うのは君自身に関することだ。』とベエシルは云った。『今やロンドン中に於ける君の評判は君自らも勿論知っているに違いないと信ずる……』ドリアンは溜息を吐いた。
『知り度いとは思わない。他人のことならいざ知らず、自分の醜聞を愛する奴はたんとは、あるまいよ。』
『すべて罪悪と云うものは必ずそれ自身を当事者の面に表現せずにはいない。断じて隠し了せるものではない。それだのに君は、実に浄《きよ》らかな燦かな玲瓏たる紅顔を何時迄も保っている。どうして君に対する忌しい取沙汰なぞを信用出来ようか。だが併し、それでは例えばバアイック公爵を初めとしてその他の多くの名流の紳士達が君と同席することを嫌うばかりでなく交わり迄を断とうとするのはどうしたことであろう?……それにまた僕は実際君と一時親交のあった多くの青年紳士や貴婦人達が何れも同じように世にも不幸な破滅を遂げたことを知っている……』
13[#「13」は縦中横]
『……僕には君の真実が解らない。僕が君の魂を見たい。』と画家は云った。『僕の魂を見る※[#疑問符感嘆符、1−8−77]』とドリアンは呻いた。『そうだ。併し、それは神様でなければ出来ないことだ。』と画家は愁しげに云った。鋭い侮りの笑い声がドリアンの唇から洩れた。『君は今晩そいつを見ることが出来るよ。僕は君に自分の魂を見せてやろう。』『ドリアン、君は何と云う恐しいことを云い出すのだ!』と画家はひどく驚かされた。『いいから僕について二階へ来給え。僕の今迄の一切を記した日記がしまってあるのだ。』二人はそこで足音をひそめて真暗な二階へ上って行った。仄暗いランプの光は壁や階段に奇怪な影を浮かせた。窓は夜風に鳴っていた。『さあ、うしろの扉を閉め給え。』とドリアンは古い部屋の冷たい夜気に肩をふるわせながら云った。
画家は訝しげに部屋の中を瞶めた。埃にまみれた椅子や机や空になった本函や色褪せたフランダース風の壁掛なぞの間に混って、かけられた一枚の絵が彼の目を惹いた。『神様だけが見ることの出来る僕の魂とはそれだ。ベエシル、カーテンを除け給え!』ドリアンにそう命ぜらるるままその帷を開いた画家は思わず恐怖の叫びを上げた。それは正に彼が描いたドリアンの姿に相違なかった。ああ、併し、何と云う激しい変り方であろう! 画家は醜いドリアンの顔に戦慄すべき無残な悪魔の面影を見とめた。だが、ドリアンの魂の秘密を知った画家は、次の瞬間背後から窺い寄ったドリアンの鋭い刃を首筋に受けて其場に昏倒した。
14[#「14」は縦中横]
翌朝、陽はうらうらと晴れ、九月の青空は明るかった。ドリアンは朝の珈琲を飲んだ後に手紙を二通したためた。そして一通をポケットに収め一通は召使を呼んで渡した。『これをハートフォド街百五十二番地のキャンベル氏へ届けてくれ。』ドリアンはそれから時計を幾度となく眺めながら部屋中を歩き廻った。彼の胸は堪え難い不安と焦慮のためにかきむしられた。到頭青年科学者アラン・キャンベル氏がやって来た。『アラン! 親切なアラン! よく来てくれた。』と待ち兼ねたドリアンが云った。『僕は再び君の家の閾をまたぐまいと固く決心したのだったが……』とアランは答えた。
『僕の生死の問題だ。そんなことを云わずとこの願いを聞き届けてくれ……』そこでドリアンは、昨夜自分が殺人を行って、その死体は二階の秘密の部屋に隠してある旨を打ち明け、そしてそれをば化学の力で巧みに処理して欲しいと頼んだのである。『いやだ! 御免を蒙ろう。』アランは顔色を変えて叫んだ。『どうしても不承知と云うのか?』『絶対に!』『よし……』ドリアンは憫笑を浮かべながら黙って紙片に何事かを書いて、それをアランに渡した。アランは紙片を読んで狼狽した。『あく迄嫌と云うならばお気の毒だ、もう一通の手紙は此処に書いて持っている……承知してくれるね。二階には瓦斯の火もあれば石綿もある。また必要な薬品なぞは一切使いをやって買わせればいい。二人の間の永遠の秘密だ……』
15[#「15」は縦中横]
その夜ドリアンはナルポウロ家の夜会に出席したが遉に心は鉛の如く重たく沈んで少しも浮き立たなかった。遂に居堪まらなくなって、ヘンリイ卿やその他の人々の引き止めるのを振り払うようにして席を外した。そしてボンド街で二輪馬車を拾うと、夜更けの街を一散に疾駆させた。月は低く懸って恰も黄色い頭蓋骨のように見えた。時々大きな黒雲がむくむくと長い腕を伸してそれを包んだ。やがて街燈の数も乏しくなり街は次第に狭く荒廃し陰惨になって行った。『魂は感覚に依って慰められ、感覚は魂に依って慰められる――』波止場の辺でドリアンは馬車を乗り捨てた。そして廃れた工場の間に挾まれた小いさな汚れた家へ入った。そこは阿片窟である。阿片の強烈な匂によろめきながら暗い小部屋へ入ろうとしたドリアンは、ランプの上に屈んでパイプへ火をつけようとしている一人の友と会った。ドリアンは誰も自分を知った者のいないところでたった一人になりたかったので直ぐに其の場から逃げ出そうとした。すると酒場《バア》のところに居合せた窶れ果た女がドリアンに呼びかけた。『プリンス・チャーミング!』この声を聞いて今迄部屋の隅のテーブルに突伏していた一人の水夫が突然その顔を擡げた。そうして憤怒に燃えた眼射で四辺を眺め廻したが、扉が閉まる音を耳にすると、矢庭に跳び上がって恰も追跡するかのように戸外へ飛び出した。
16[#「16」は縦中横]
ドリアン・グレイは波止場に沿って、ビショビショと降り出した雨の中を急いだ。彼は阿片窟で会った若い友の悲惨極まる運命もまたベエシルの云った如く自分に関りがあるのだろうかと思い返した。彼は唇を鳴した。彼の眼はほんの少しの間悲し気に曇った。だが、結局それだからと云って如何なるものでもないではないが……彼は一層足を早めて、そして近道をするために薄暗い拱路《アーチウエイ》へ入った。するとこの時何者かが矢庭に背後から彼を引っつかむと、彼が抗う暇《いとま》もなく兇暴なる腕は、彼の首をしめつけたまま忽ち壁に向って押し戻した。彼は必死になって※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いて漸くその恐しい指を払い除けることが出来たが、今度はピストルの金具の鳴る音を聞き、そして彼の頭を真直ぐに狙っているギラギラ磨かれた銃口とずんぐりとした汚れた男の顔と向き合った。
『何をするんだ?』とドリアンは喘いだ。『静かにしろ!』と男は云った。『貴様はシヴィル・ヴェンを殺した。俺は彼女の弟だ。俺は復讐を誓って十八年もの間お前を探し求めていた。』『十八年?』ドリアンの蒼ざめた顔に勝利の色が浮んだ。『十八年! 僕を明るい灯の下でしらべて見給え。』そこで水夫はドリアンを拱道から出して、風に揺ぐ街燈の下でその顔を
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