如き純粋な散歩者は他には殆ど見当らなかったと云ってもいいに違いない。井深君はそれこそもう散歩の中毒みたいになっていて、毎日々々たといどんなに空あんばいがすぐれなくても、どんなにひどい木枯が吹きまくろうとも、この日課だけは決して忽せにしなかった。そしてその散歩に、人一倍おしゃれな井深君は何時もきまって中山帽をかぶり立派な黒服を着て出かけるのだった。――断っておくが、井深君の齢は、そんな身形《みなり》をしても、未だ三十二歳には少し間があって、しかもその実際よりも更に三つ四つ若く、つまり弱冠《はたち》そこそこにしか見えないような童顔をしていた。
で、とにかく何の用事もなく、何の的《あて》もなく、新橋の方から銀座通の左側の舗道をぶらぶら歩いて行った。そして尾張町の四辻より一つ手前の四辻に差しかかった時である。その角から不意に、まるでそこの横通りを吹き抜ける風にあおられた操人形《マリオネット》のような足取りで、若い女がオレンジ色のジャケツを着て飛び出して来たのであった。帽子をかぶらぬ|お河童《ボップドヘヤ》で赤ん坊みたいな顔をした娘であった。ところで、それがどういうつもりか井深君の前に危くヒョイと踏み止まったが、井深君の中山帽子の頂からスパッツをつけた靴の尖まで、ジロリと一っぺんに見上げ見下ろすと、さて身を転じて颯々と肩をゆすり乍ら歩いて行ったのである。
(まあ! なんて女なんだろう!……)
井深君は今日が日迄幾十度となく、いや恐らく幾百度となく同じような身形で銀座を歩いた。併しついぞ一度だって通り掛りの者なぞからそんな風にして見られたためしはなかったのだ。だから屹度彼女は偶然井深君と見間違える程よく似た恰好の男をその知己にもっていたのであろう。……が、たといそうとしても何という厚かましい不躾な眼付きだったのだろう! ……育ちのよい少年の如く殊の外気弱な井深君は胸を動悸させ乍ら、逆毛立ってやわらかい草むらのように縺れ合っているお河童頭の後姿を見送った。
ところが、それから一時間も経ったかと思う頃、同じ場所でもまたもや彼女と出会ったのである。井深君はその小一時間の間、ブライヤアのパイプと一緒に甃石の上を歩き続けながらも、喫茶店でポスタムを啜り乍らも、如何にもそのへん[#「へん」に傍点]な娘の姿が気になってならなかった。それ程だから再びその四角へ通りかかった時には、勿論横の
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