花嫁の訂正
――夫婦哲学――
渡辺温
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)報告《おしえ》るのであった。
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)あたしたちのことを※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
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1
二組の新婚夫婦があった。夫同士は古い知己で隣合って新居を持った。二軒の家は、間取りも、壁の色も、窓も、煙突も、ポオチもすっかり同じで、境の花園などは仕切りがなく共通になっている。
一週間経つと花嫁と花嫁とも交際をはじめた。
「――お隣の奥さん、今日も一日遊んでいらしたのよ。」
そうAの細君が、勤めから退けて来たAに報告《おしえ》るのであった。
「二人で、どんな話をして遊ぶんだい?」
「あの方、それぁ明けっぴろげで何でも云うの。あたし、幾度も返事が出来なくて困ったわ。」
「たとえば?」
「あのね。……あなたの御主人は、朝お出かけの時、今日はどのネクタイにしようかって、あなたにおききになる? なんて訊くの。」
「返事に困る程でもないじゃないか。」
「それから、あなたが泣くか、っても訊いたわ。」
「僕が泣くか、だって?」
「ええ。あたし、だから、未だ一ぺんもAの泣いたのなんか見たことがありませんて、そう云ったの。」
「してみると、Bの奴女房の前で泣くのかな。――あんな本箱みたいな生物学者を泣かすなんて、どうも偉い細君だな。いやはや。」
Aは煙管の煙に噎ぶ程哄笑ったが、哄笑いながら、細君の小いさなギリシャ型の頭を可愛いくて堪らぬと云ったように撫でてやった。
「お前も、ちっと位僕を泣かしてくれたっていいよ。」と彼は云った。
次の土曜日の夕方だった。
Bの細君が、帝劇にかかったニナ・ペインのアクロバチック・ダンスの切符を二枚もってAの細君を誘いに来た。
だが、生憎Aの細君は、歯医者へ行く旁々《かたがた》街へ買物に出たばかりで留守だった。帰るのを待っている程の時間がなかった。
「B君は行けないのですか?」と、一人で蓄音器を鳴らしていたAが訊き返した。
「調べ物が忙しいし、それにあんまり好きじやありませんの。」
Bの細君は、派手な大きな網の片かけの房につけた鈴を指さきで、ちゃらちゃらさせながら、鳥渡考えてから云った。
「Aさん、あなた御一緒して下さらなくて?」
Aは多少極まり悪そうだったが、切符を無駄にするのは勿体ないと云うので、お供をすることにした。
「本当は僕だって、切符を買うつもりだったんですが、女房がちっとも賛成してくれないもんだから……」
Aは、いそいそと上衣を着換えると、細君へ一言書き残した紙片を茶卓の上へ置いて出かけた。
帝劇の終演《はね》が思いの外早かったので、彼等はお濠ばたを、椽の並木のある公園の方へ散歩した。アアチ・ライトの中の青い梢が霧に濡れていた。誰も彼等と行交わなかった。彼等はお互の腕を組み合わせて歩いた。
「他人が見たら、御夫婦と思うでしょうね。」と云ってBの細君が笑った。
「僕の女房は、こんな風にして歩きませんよ。」
Aは、そう答えて、振り返った拍子に、彼女の耳飾りを下げた耳の香水を嗅いで、胸を唆られた。
「おとなしくて、いい奥さんね。あなた、随分長いこと愛していらしゃったんでしょう。」
「ええ、子供の時分から知ってたんです。」
「その間、ちっとも浮気をなさらなかったの?」
「勿論、僕は、ひどく何て云うか、ガール・シャイとでも云うんですかね、他の女はみんな怖かったんです。」
「まあ。」
「あなた方は如何だったんです?」
「たった一日恋人だったの。スケート場の宿屋で泊ったのよ。その話は御存知なんでしょう?」
「Bは何とも云いませんでした。」
「フィギュアをやってる時、あの人と衝突して、あたし仰向に倒れて気絶しちゃったの。そうして、介抱して貰ったの。あの人は、とても親切にしてくれましたわ。でも今考えてみると、その女があたしじゃなくてよかったのですわ。」
「何故ですか?」
「だって、あの人、近頃ではあたしの性分があんまり好きじゃなさそうなんですもの。Aの奥さんみたいになれって、毎日あたしを叱るのよ。」
「そりゃあ好かった。家の女房ならば、Bの為事《しごと》の助手位はやるでしょう。何しろ、自然科学にかけては、僕の十倍も詳しいと云う女ですからね。」
「あたしは頭脳が悪いから駄目。――あたし、いっそBと別れちまおうかしら。……」
Bの細君は、そこで大きな溜息を吐いたが、Aは何とも返事をしなかったので、ちょっと両肩をすくめると、口笛を鳴らしはじめる。
折から通りかかったタクシーを、Aがステッキを上げて停めた。
家へ帰ると、Aの細君は寝室の水色の覆《シェード》をかけた灯の下で、宵に街から買って来た絹糸でネクタイ編みながら未だ起きていた。
「ごめんよ。さびしかったろう?」
「いいえ……Bさんが鳥渡遊びにいらっしったわ。」
「Bが?」
「怖そうな人ね。それに、まるでだんまりやよ。」
「うん。あれでなかなか気の好いところもあるんだがね。僕たちのことを何も云ってやしなかったかい?」
「別に、でも、一言二言皮肉みたいなことを云ったわ。」
「何て?」
「あなた、気を悪くするかも知れないの。」
「何て云ったい?」
細君は、編みかけの赤とオリイヴ色とが交ったネクタイをいじりながら返事をしなかった。
「ねえ、本当に何て云ったんだ?」Aは、飲みかけの紅茶をさし置いて追及した。
「あのね、こんなネクタイを編ませたりするAの気が知れない。こんなものは、街へ行けばもっと安く、手軽に買えるじゃありませんか、って。」
Aは苦笑した。
「フム、学校で生物学の講義でもしていると、どんなことでもそんな風にしか考えられなくなるんだよ。……自分の細君のことは何とも云わなかったかい?」
「――いない方が、邪魔にならなくていいんですって。それに、僕の女房は僕に、A君が気に入っているのだし、A君とならよく似合うから恰度いいだろうって仰有ったわ。」
「下らない! 変な冗談を気にかけちゃいけないよ。僕はBの細君なんかと一緒に行ったって、ちっとも楽しくなんかなかった。本当に、悪かったら、勘弁しておくれ。」
Aは細君をやさしく抱いた、すると彼女は身をかたくした。
「なぜ、そんな風に仰有るの?」
「莫迦! 泣く奴があるもんか」
「だって、あなたが、そんなことを仰有るからよ……」
「これから、決してお前ひとり置いて行ったりなどしないよ。……いい子だ、いい子だ。」
Aは細君の泪に接吻してやった。
2
併し、Aと、B夫人との間はそれから加速度的に接近して行った。
夫の仕事の邪魔になるからとか、学校の研究会で帰りが遅くなって、一人でいるのは淋しいとか、いろいろな口実のもとに、Bの細君はAの家に入り浸った。
一度なぞは、Aの役所の退け時に、さも偶然らしく役所の前を通りかかって、一緒に散歩してお茶を飲んだり、自動車に乗ったりして帰って来た。尤も、その時はAも表面で全く成心なさそうに振舞ったが、併し家へ帰ると、二人ともそのことを内秘にしていた。
またBの細君はタンゴ・ダンスがうまかったので、A夫婦にも教えることにした。けれども、Aの細君の方が何時も気のすすまない顔をしていたので、大ていAばかりを相手にして踊った。Aは彼女と四肢を張り合わせるようにくっつけて、客間の中を引っぱり廻された。そして女の体を胸の中に抱きかかえる姿勢のところに来ると、自分の細君の方を振り返って赧くなるのだが、だんだん狎れると、一層赧い顔をしながら、そっと両腕に力を入れた。
「ごめんなさい、奥さん。――」とBの細君は、Aの細君へ彼女の夫の腕の中に身をたおしたまま声をかけるのであった。すると蓄音器係のAの細君が
「どうぞ。――」と冷かにそれに答えた。
結婚して三週間経つか経たない中に、Aは新妻を裏切ってしまった。
或る晩、矢張りタンゴを踊っていたのだが、Aは細君が退屈そうに脇見をしている隙を覗って、素早くパアトナーの唇に接吻した。そして、彼女が帰る時にも、わざわざポオチまで送って出て、そこの藤の緑廊《パーゴラ》の蔭で長い接吻をしたのである。
だが、その後で彼は直に家の中へ飛び込んで行って、すっかり細君に白状した。彼女も遉にびっくりして泣いた。
「あたし、何だか、そんなことになるのが前から判っていたような気もするの……」と彼女は泣きじゃくりながら云った。
「そう薄々感づいていながら、平気でいたお前にだって責任の一半はある。」Aは我儘な子供のように焦れったがった。
「あなた、なぜ、あたしを捨ててしまおうとなさらないの?」
「僕はお前と別れようなんて夢にも考えてやしないよ。……お前が、お前一人で、僕を堪能させてくれなかったからいけないのだ。結婚したばかりで、妻が夫の心の全部を占領していないなんて間違いだと思う。」
「――別れるの可哀相だから嫌だと云うだけでしょう?」
彼女は泣くのをやめて、ぼんやり考え込んだ。
「しばらく海水浴にでも行って、二人きりで暮そうじゃないか。」とAが急に思いついたように云った。「明日の朝、出発しよう。……お互にしっかり隙のない生活に嵌り込むことが必要だ。」
翌朝、役所へだけ届けをして、B夫婦には断らずに、海岸へたった。
ところが、一日置いて、海岸のAの細君から、Bの細君へ宛てて手紙が来た。
――突然ここの海辺へやって来ました。お驚きになったでしょう。だしぬいて驚かしてやろうとAが主張したのです。ごめんなさいね。
此処の海は人があんまり入りこまないので、水が澄んで底の方まですっかり透き通って見えるし、それに何時でも潟のように穏かです。
Bさんも、もう学校がお休みでしょう。あたし共ばかりでは、淋しくて困りますから、Bさんに願って、お二人連れでいらっしゃいませんか。――
Bの細君は、昨日からA夫婦の突然の行方不明が気懸りでならなかったのだが、この手紙で一先ずほっとしたわけである。そしてBにもこれを読ませると、Bは何時になく気軽にそこの海岸へ、夫婦のあとを追って海水浴に行くことを賛成した。
二三日して、学校の暑中休暇が初まると早々出発した。
途中の汽車の中で、Bは偶《ふ》と、細君に向って、こんなことを云い出した。久し振りで不精髯を剃ったので、平生より余計蒼白く骨ばった顔をしたこの生物学の教師は、支那人のように無愛想な笑いを浮べながら、
「Aの細君は、お前たちのことを、やっと今になって感づいたのかな?」
Bの細君は忽ち蒼ざめてしまった。
「あたしたちのことを※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
「そんなに吃驚するところを見ると、お前は僕迄騙していたつもりらしいが、実を云えば、僕なんか、或はお前たち自身よりも、もっと早くお前たちの今日を気がついていたかも知れないのだ。」
「まあ、何てひどい!」と彼女は、泪を流して、併し人目を憚って泣声を噛み殺しながら云った。
「あなたは、あたしを罠に落そうとなさるんですか? どんなに確かな証拠があって――」
「そう、たった一ぺん、こないだの晩、Aの家のポオチでお前たちが接吻し合っているのを見たきりだが、併し、Aが自分の女房よりお前の方を余計愛していることや、お前が僕よりAを愛していることは、そんな他愛もない証拠などを云々する迄もなく、誰でもお前たちの様子を一目見さえすれば納得が行くに違いない。」
「…………」
「そして、誰だって無理はないと思うことさ。だが、僕をごまかして置こうなんてのは沙汰の限りだ。」
「ああ! あたし、どうすればいいのでしょう。どうしても誘惑に打ち勝てなかったのです。……でも、もういくら悔んだところで、追い付かないことだわ。」
「今更、なまじ後悔なんかされると、恋の神様が戸惑いなさるよ。矢鱈に後悔したり、詑びたりし度がるのは、悪い癖だ。」
「――ごめんなさい。」
「僕は昔からAの性質を知っているが、彼奴は見かけだけ如何にも明快そうに
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