二人の男女は少しも悪い容体にならずに、現世《このよ》に存《ながら》えている。Aは到頭我慢が出来なくなって、もう一度薬を飲むことにした。併し、三錠目は壜の中にパラフィン紙がつまっていて、なかなか出て来なかった。マッチの棒を使って漸くパラフィン紙ごと出してみると、今度は白い錠剤だった。
「これが本物らしい。屹度、さっきのは解毒剤だったのかも知れませんね。」と男が云った。
 女は白い錠剤を手の掌に載せて眺めていたが、やがて長い溜息と一緒に首を振った。
「ここにアスピリンと書いてあってよ――」
 こころみに噛んで味ってみる迄もなく、なる程アスピリンに違いなかった。Aは偶と、パラフィン紙の皺を伸ばしてみた。すると、それには鉛筆でこう書いてあった。
「――刃物、縊死、鉄道往生、その他いろいろ自殺の方法を、このあまりに感情的だった動物は考え出した。だが、まあ、君たちが飲んだ亜刺此亜《アラビヤ》風の薬の効き目はあらたかだったに違いないと信ずる。……さあ、直ぐに君たちの祝福された住居へ帰って来たまえ。(ねつさましなど飲む必要はないよ。)」

 4

 半信半疑の気持で、二人が帰ってみると、先に帰っていた二人が仲よく肩を押し並べて彼等を迎えた。
「ねえ、Aの奥さん。あなた方の新家庭の飾りつけは、もう今朝の中に、あたし共がして置きましたわ――」とBの細君に向って、Aの細君が云うのであった。
「まあ!」
 Aの家の中には、これ迄そこに見慣れた女主人の持ち物と入れ代りに、もとBの家に飾ってあった女の道具が残らずキチンとそれぞれの場所に、新しい女主人を待ち受けていたではないか。
「ねえ、Aの奥さん。うちの先生はあなたとAさんと、タンゴ・ダンスを踊るのが見たいんですって?」
「まあ、いやですわ。Bの奥さんたら。あたしたちこそ、あなたの先生の優しい助手振りを拝見させて頂きたいものよ。」
 と云う工合に、彼女たちの接頭詞が互に入れ違ってしまったのである。
「どうだね、これで魚は水に、蝶は花に棲めるわけだ。君も満足だろう。」とBは親しげにAの肩を敲いて云った。
「ああ! 君には何とお礼を云っていいのかわからないよ。」Aは古い友人の親切に全く感激していた。「こんな僕の我儘をこれ程まで寛大に許してくれるなんて!」
「我儘を許す? 莫迦云っちゃいかん。これが正しい生活さ。我々は、ちょっとした間違いでも、気が
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