情な頤を波の上につき出して進んで行った。Aは実際は、それ程水練に熟練していなかったので、間もなく手足に水の冷たさが堪《こた》えた。そして、だんだん草臥れて、息が乱れて来るのがわかった。だが、弱音を吐かずに我慢しなければならなかった。初めの中こそ二人並んでいたのだが、直きにBは可なりの距離を残してAの先に立った。決して、蒼ざめ果て顔を引歪めているAの方を振り返って見なかった。Aはその中に、幾度か塩水を飲み込んで噎せた。そして到頭、右の脚をこむら[#「こむら」に傍点]返りさせて、ぶくぶく沈みはじめた。
 Aの叫び声を聞いて、たちまちBは引き返して来ると、浪の下にもみこまれているAの腕を危く掴まえて浮んだ。そして折よく近くにい合せた小舟に救い上げてもらった……
 Aが、宿屋の床の中で、はっきり吾に返った時、枕元について看護していたのは、Bの細君一人だけだった。
「僕は、どうして助かったのですか?」
「Bが助けました。」
「…………」
「Bは大へん心配していました。あなたに、人のいないところで泳ぎながら、あのお話をするつもりだったのですって。」
「うちの女房はどうしたでしょう?」
「奥さんは何も御存知ないの。あなた方が泳ぎはじめると、直ぐに『眩暈がする』と仰有って、宿に戻ったのですけれど、それっきり皆を置いてきぼりにして家へ帰ってしまったらしいの。帳場で聞いたら、ただあなたに『急に思い出したことがあるから――』と云うお言伝だったそうです。」
「Bは?」
「自分の部屋にいます。」
「呼んで来てくれませんか。」
 Bの細君は、Bを呼びに立ったが、直き一人で、右手に黒いガラスの小壜を持って引返して来た。
「Bも帰ってしまいました!――」と彼女は震え声で、やっとそれだけ云った。
「何とも断らないでですか?」
 彼女は點頭《うなず》いて、黒いガラス壜を差し出して見せた。小いさな髑髏《どくろ》の印のついたレッテルに、赤いインキで(空虚の充実。お役に立てば幸甚!)と書かれてあった。
 二人は容易にその意味を理解した。そしてその夜、壜の中の赭黒い錠剤を一個ずつ飲んで、天の花園へ蜜月旅行に旅立つために、二人はあらためて、花嫁となり花婿となった。……だが、何時間経っても、ただ一度Aが苦い※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]気を出した以外に、薬の効き目はあらわれなかった。夜が明けかけても、
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