いたお前が、もうお嫁さんになるなんて、とても本当とは考えられない程だよ。お嫁さんになって、赤ちゃんを生んで……そうすれば、あたしは祖母さんなのかしら――おかしいわねえ。……』
 母親は、溜息のように笑った。その平生《ふだん》は、どうかするとひどく子供っぽく澄んで見える瞳に愁しげな影がさしていた。
(長い間、あたしと二人っきりで暮して来たのに、今度あたしの愛情が半分、見も知らない他所の人にとられてしまうので、それでお母さんは淋しがっているのだわ……)
 智子は母親の気持がわからなかったわけではないのである。併し、そのために、彼女の新しい正しい愛が、不当に歪められなければならぬ理由は何処にもなかった。
 そうして、或る土曜日の夕刻から、智子は初めて浅原を晩餐に招いて、母親とひき合せた。凡そ、浅原ならば、誰の眼にも申し分のない婿と見えていい筈だった。
 だが――。
 恋人と、やさしい母親とを一緒に並べて、せい一ぱい幸福だった智子は、その母親の憂愁の色が一層深くなっていたのには心づかなかった。
『ねえ、お母さん、お父さんに似ているとお思いにならなくって?』と智子が母親に云った。
『ほんとうに、そっくりでいらっしゃること――』
 母親の声は、虚《うつろ》にひびいた。
『お母さん、せいぜい懐かしがって頂だい。』
『そんなに、似ていますかなあ。』
 浅原はてれ臭そうに頤の辺を撫で廻した。
『いろいろ娘から伺って居りますが――お父さまはお亡くなりになったのでございますってね。』
『ええ、僕が中学校を出た年――もう九年からになります。アメリカで死にました。』
『おや、アメリカヘ行っていらしたのですか?』
『ええ、この事は、話す必要もないし……あんまり話したくなかったので、智子さんには未だ云わずにいました。』
『お父さんの御苗字は、もとから浅原と仰有いましたか?』
『いいえ、浅原と云うのは僕の母方の姓です。父は松岡と云う家から養子に来たのです。』
『マツオカ?!――』
 智子の母親は咽喉をひきつらせた。
『御存知でいらっしゃいますか?……』浅原が吃驚して訊き返した。
『いいえ、いいえ。……それで、あなたも、アメリカでお育ちになったのですか?』
『ええ、生まれたのは彼地《あちら》です。でも、小学校に入る年頃になると直ぐに、母方の祖父の意見で、母と一緒に日本へ呼び戻されて、それからずっと母の実家で育ちました。――父だけは、何と云っても此方《こちら》へ帰ることを承知しなかったそうです。』
『なぜでしょう?』
『知りませんが――』
『…………』
 智子は、この時ようやく母親の顔色がひどく蒼ざめているのに気がついた。
『お母さん、御気分が悪いのじゃなくって?――』
 そう云いながら、その手を握ると、冷たく汗ばんで慄えていた。
『ほんの少し頭痛がするだけなんだけれど、――ちょっと休ませて頂こうかね。』
 母親は、浅原に会釈してから、娘に肩を支えられて力ない足どりで出て行った。
 智子が一人で部屋へ戻って来ると、浅原は思い切ったように智子に云った。
『智子さん、あなたのお父さんの写真と云うのを、見せて下さい。』
 智子は直ぐに立ってアルバムを出して来た。彼女も何かしら容易ならぬ不安を感じて、アルバムをめくる指さきがおののいた。
『ああ!……』
 智子に示された写真を見て、浅原が鋭い叫び声を立てた。
『僕のお父さんだ!――いや、少くともこの写真はそうです。僕はこれと同じ写真を家から持って来てお見せすることが出来ます。……』
『そんな莫迦な!』
 智子は、いきなり真暗な底の知れない穴の中へ転落して行くような激しい眩暈を感じた。
 恋人同志が、同じ一人の父親をもっていたとすれば、これ以上惨めなローマンスの破綻はない。
 男は畳の上に突伏したまま絶望のあまり気を失いかけている女を後に残して、逃れるように戸外へ飛び出して行った。

  4

 翌る朝、未だ明け切らない中に、浅原が再び訪ねて来た。智子は、一晩中泣き明かして眠らずにいた。
『どうしても合点の行かない節があるのです――』と浅原は白けた唇をわななかせながら、せき込んだ調子で云うのであった。『――僕の父は、あなたが生まれる五六年も前にアメリカへ渡ったのですが、それ以来ただの一度も日本へ帰らなかったことは、私の母をはじめ誰に聞き合せてみても、確な事実らしいのです。……あなたのお母さんに、本当のことをお訊ねしなければなりません。お母さんは何処にいらっしゃいますか?』
『母は、昨夜から――あの時きり、二階のお部屋から出て参りませんの。』
『あれっきり?――』浅原はギョッとしたらしかった。『直ぐにお母さんにお目にかからなくちゃあ!』
 浅原は、智子の腕をつかんで階段をかけ上った。二階の廊下へ出ると、はげしいガスの匂が鼻を
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