なかった。』
『あら、同じ食べものを誂えたからって、まさか狙ったとも云えなくってよ。お母さんと来たら、随分苦労性ね。大丈夫。あたし、お母さんなんかに些とも心配かけやしないわ。』
 娘は何時になくはしゃいだ調子で答えた。
 次の日、出勤の折、会社の扉口の前で智子は再び青年と出遇した。青年は、恰度廊下を隔てて筋向いになっている自動車会社の事務所から姿をあらわしたところだったが、彼女と顔を見合わせると、周章てて眼を外らせて、まるで慍ったような硬い表情を浮べながら、玄関の方へ歩み去った。
 智子が考えてみるのに、その青年は前から其処の自動車会社に勤めていて、これ迄も幾度かお互に顔を合わせながら、どんな男の社員たちにも殆ど関心をもたなかった彼女だったので、つい見過ごしていたのかも知れなかった。
 その後、彼女は屡《しばしば》彼の姿を気にとめて見かけるようになった。そしてやがて、彼がその自動車会社の技師で浅原礼介と云う名であることや、またこの頃自動車の発動機に就いて、何か新発明を完成させて、相当嘱望されていることなどを知った。

 土用に入って最初の夕立がした。恰度退勤時刻だったが、雨支度がなかったので、智子は事務室に居残って、為事《しごと》の余分を続けながら、晴れ間を待っていた。日が暮れ落ちても雨脚は弱らなかった。それで、待ちあぐんで、兎も角建物の玄関迄出て見た。通りがかりのタクシィでもあればと考えたのだが、そんな裏町を退勤時刻過ぎて通り合わせる車は滅多になかった。近所の自動車屋へ電話をかけてみると、生憎みんな出払っていた。
 智子は途方に暮れたまま、青白い街燈の中に銀色に光る逞しい雨の条を眺めていた。
 すると、其処へ彼女の背後から靴音をさせて浅原が出て来た。浅原は、雨だれに向ってしょんぼり佇んでいる智子の姿を一瞥して、鳥渡躊躇したらしく、立ち止まりながら暗いひさしの外を仰いだが、さて上衣の襟を立てると、人道を横切って、そのむこう側に着けてあった小さな二人乗箱型の自動車《クーペ》[#「箱型の自動車」に「クーペ」のルビ]の扉をあけてそれへ乗った。智子も先刻からその自動車には気がついていたのだが、遉に浅原の乗用とは考え及ばなかった。
 浅原は硝子窓の内側から、熱心な眸で智子の方を瞶めた。
 (あの人、乗せてくれるかも知れないわ――)
 智子は、そんな期待を感じて、胸をかたくした。
 だが、そのまま浅原のクーペは軽いエンジンの音を響かせて滑り出した。そして、哀れな智子を置いてきぼりにして、忽ち赤い尾燈《テイルライト》を鳶色の雨闇の奥へ滲[#底本では、さんずいに参]ませながら消えて行った。智子は、苦笑などでは紛らわしきれない程、ひどく当の外れたような物足りなさを覚えた。人けのない、雨のビショビショ降る事務所《オフィス》街の薄暗がりに、たった一人立っている自分が俄かに佗しい気さえした。……
 到頭、智子は本通りまで濡れて行くことに決心した。そこで、袴《スカアト》の裾をつまんで、甃石の上を歩き出そうとした時だった。
 行く途の町角を強いヘッドライトの光芒が折れたかと見ると自動車が一台、沫を上げながら走って来た。そして、智子が、ひょっとしてそれが『空き車』の札を掲げてはいまいかと思って、踏み出した爪先を、ためらっている目の前へ来て、ピタリと停車したのである。『空き車』の札は何処にも見当らなかった。
 ところが、扉を開けて降りて来た運転手が、智子へ慇懃に挨拶をしたのである。
『お待ち遠さまでした。』
『はあ?……』智子はびっくりした。
『タクシィでございます。ただ今、表通りでクーペを御自分で運転していらした紳士の方から、そう云いつかってまいりました。あなたさまではございませんでしょうかしら?』
 智子は、それで漸く合点することが出来た。
『ええ、あたし、――あたしよ。御苦労さま。』
 草色|天鵞絨《ビロウド》のクッションの中に身を落ち込ませて、智子はホッとした。すると、何だか曾てない明るい嬉しさと一緒に、おかしさが込み上げて来て、ひとりでクックッ笑えてならなかった。
 郊外の住居へ着いた時に、代金を払おうとすると、すでに浅原から貰ってあると云う運転手の言葉だった。

  3

 秋になって――
 智子から、彼女が浅原と婚約したと云う話を唐突に聞かされた時に、母は遉におどろいた。娘の利発な思慮深い性質を充分信じていたので、その恋愛についても、危懼する必要は殆どないわけだったが、不運な想い出をもった母親にしてみれば、矢張り心もとなく思われたのであろう。
『とにかく一度お会いになって下さい。お母さんだって、屹度お気に入ることと思うわ。』
『そりゃあ、お前がいいと考えた人なら、間違いはないに違いないけれど。……でも、ついこないだ迄、やんちゃで私を散々困らして
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