だが、そのまま浅原のクーペは軽いエンジンの音を響かせて滑り出した。そして、哀れな智子を置いてきぼりにして、忽ち赤い尾燈《テイルライト》を鳶色の雨闇の奥へ滲[#底本では、さんずいに参]ませながら消えて行った。智子は、苦笑などでは紛らわしきれない程、ひどく当の外れたような物足りなさを覚えた。人けのない、雨のビショビショ降る事務所《オフィス》街の薄暗がりに、たった一人立っている自分が俄かに佗しい気さえした。……
 到頭、智子は本通りまで濡れて行くことに決心した。そこで、袴《スカアト》の裾をつまんで、甃石の上を歩き出そうとした時だった。
 行く途の町角を強いヘッドライトの光芒が折れたかと見ると自動車が一台、沫を上げながら走って来た。そして、智子が、ひょっとしてそれが『空き車』の札を掲げてはいまいかと思って、踏み出した爪先を、ためらっている目の前へ来て、ピタリと停車したのである。『空き車』の札は何処にも見当らなかった。
 ところが、扉を開けて降りて来た運転手が、智子へ慇懃に挨拶をしたのである。
『お待ち遠さまでした。』
『はあ?……』智子はびっくりした。
『タクシィでございます。ただ今、表通りでクーペを御自分で運転していらした紳士の方から、そう云いつかってまいりました。あなたさまではございませんでしょうかしら?』
 智子は、それで漸く合点することが出来た。
『ええ、あたし、――あたしよ。御苦労さま。』
 草色|天鵞絨《ビロウド》のクッションの中に身を落ち込ませて、智子はホッとした。すると、何だか曾てない明るい嬉しさと一緒に、おかしさが込み上げて来て、ひとりでクックッ笑えてならなかった。
 郊外の住居へ着いた時に、代金を払おうとすると、すでに浅原から貰ってあると云う運転手の言葉だった。

  3

 秋になって――
 智子から、彼女が浅原と婚約したと云う話を唐突に聞かされた時に、母は遉におどろいた。娘の利発な思慮深い性質を充分信じていたので、その恋愛についても、危懼する必要は殆どないわけだったが、不運な想い出をもった母親にしてみれば、矢張り心もとなく思われたのであろう。
『とにかく一度お会いになって下さい。お母さんだって、屹度お気に入ることと思うわ。』
『そりゃあ、お前がいいと考えた人なら、間違いはないに違いないけれど。……でも、ついこないだ迄、やんちゃで私を散々困らして
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