ながら「今夜は未だ大分金があるぞ。」と云った。月々の部屋代と食費と洋服代との全部であった。女は背のびをして、紙幣の数をのぞきこむと、「まあ――」と云って笑った。
女は少しばかり元気になったのかも知れなかった。
女の部屋に入って、寝る時、女は枕元の活動役者の写真をべたべた貼りつけた壁に、私のシルクハットをそっと掛けて、そしてさて手を合せて拝む真似をした。シルクハットの地と云うものは、物がふれると直ぐケバ立ってしまうので、女は非常にこわごわと取扱わなければならなかった。
そこでシルクハットは、私達の頭の上で、夜中艶々しく光っていた。
寝ていて、女は再び一層気落ちがした様子で幾度となく大きな溜息をもらした。
「病気って、どこが悪いの?」と私はきいた。
「いけない病気なのよ。」女の声は咽喉の奥でぜいぜい鳴った。
「声がおかしいね。呼吸病かしら?」
「ええ。だから助からないわね。あなた、そんな病気の女、おいやでしょう?」女は、私の髪の毛を細い指の間にからませながら、そう訊き返した。
「君が、死ぬなら、僕も一緒に死ぬよ。」と私は答えた。
すると女は両手をその顔に当てた。
「それでは、一緒に死んで下さらないこと?」
「いいとも。」
「……あなた、華族様なの?」
女は、そう云って、シルクハットの方へ眼を上向けてみせた。
「本当を云うと、僕の家は伯爵だけど。」と私は嘘をついた。
「あたし、華族様と二人で死ぬのは、嬉しくってよ。」
「そうかな――」
女の四肢は、なめし皮のように冷めたくて、不愉快に汗ばんでいた。
風が出て、窓の外の浪の音が烈しくなって、私は寝苦しかった。
「君の女は、かさかきだって話だぜ。」
翌朝早く、波止場の上で、沖の方に朝の陽を浴びて碇泊している西洋の軍艦を眺めて、休んでいた時に、中村はそう云った。
「僕は肺病だと思った。」
「かさかきだよ。西洋のひどい奴だそうだ。」
「はて、僕に一緒に死んでくれって、そう云ったが。」
「余程、性悪の女だね。」
「僕は一緒に死ぬことを受け合ったんだよ。そして僕は、肺病のばいきんを口一杯に引き受けてやったんだが。」
「君は、西洋の水兵のかさを引き受けたわけだ。」
「そいつは、弱ったな。」
私は深い嘆息と共に、シルクハットを脱いで膝の上に載せたが、あやまってそのケバを逆にこいてしまった。すると毛並は荒々しくさか毛立
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