あります。
[#改ページ]
念仏
六畳の座敷は、八畳よりも七八寸位、高みに出来て居りまして、茲にお大師さまがおまつりしてあるのです。此の六畳が大変に汚なくなつて居ましたので、信者の内の一人がつい先達て畳替へをしたばかりのとこなのださうでした。六畳の仏間は奇麗になつて居ります。此の島の人……と申しても、重に近所の年とつたお婆さん連中なのですが、お大師さまの日だとか、お地蔵さまの日だとか、或は又、別になんでも無い日にでも、五六人で鉦をもつて来て、この六畳の仏間にみんなが坐つて、お念仏なり、御詠歌なりを申しあげる習慣になつて居ります。
それはお念仏を申す[#「申す」に傍点]とか、御詠歌を申す[#「申す」に傍点]とか、島の人は云ふのです。それで、只単に「申しに[#「申しに」に傍点]来ました」とか、「申さう[#「申さう」に傍点]ぢやありませんか」と云ふ風に普通話して居ります。八九分通り迄は皆お婆さん許り……それも、七十、八十、稀には九十一といふお婆さんがありましたが、又、中には、若い連中もあるのであります。そこで可笑しい事には、このお念仏なり、御詠歌なりを申しますのに、旧ぶし[#「旧ぶし」に傍点]と新ぶし[#「新ぶし」に傍点]とがあるのであります。「旧ぶし」と云ふのは、ウン[#「ウン」に傍点]と年とつたお婆さん連中が申す調子であります。「新ぶし」は中年増と云つたやうな処から、十六や十七位な別嬪さんが交つて申すふし[#「ふし」に傍点]であります。そのふし[#「ふし」に傍点]廻しを聞いて居りますと、旧ぶし[#「旧ぶし」に傍点]は平々凡々、水の流るゝが如く、新ぶし[#「新ぶし」に傍点]の方は、丁度唱歌でもきいて居るやうで、抑揚あり、頓挫あり、中々に面白いものであります。ですから、其の持つて居る道具にしても、旧ぶし[#「旧ぶし」に傍点]の方は伏鉦を叩くきりですが、新ぶし[#「新ぶし」に傍点]の方は、鉦は勿論ありますし、それに長さ三尺位な鈴《リン》を持ちます。その鈴の棒の処々には、洋銀か、ニツケル[#「ニツケル」に傍点]かのカネ[#「カネ」に傍点]の輪の飾りが填めこんでありまして、ピカ/\光つて居る、棒の上からは赤い房がさがつて居る。中々美しいものでありますが、それを右の手に持つてリンリン[#「リンリン」に傍点]振りながら、左手では鉦をたゝく、中々面白くもあり、五人も十
前へ
次へ
全24ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 放哉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング