かし、俺は、愉快だとも、乃至、面白く無いとも思はんよ。何だと思ふつて、何とも思はんのさ。と云つたからつて意志が無いと思はれては困るね。面白い事と、悲しい事と、差引勘定|零《ぜろ》。此点に於て、何も思はん事となるのさ。一と二と三と加へて、一と二と三と引けば、差引勘定零。此処に於て、何も無い事となるのさ。花が咲いて、花が散つて、何も無い事となるのだ。と云つて、此の無と云ふのは、無には相違ないけれ共、絶対的の無ではない。無にして無にあらず、では有るのかと云ふと有るのでもない、何の事やら訳のわからぬ物だ。しかし、考へて見給へ、人間が此世に生れて来て、十歳で死なうが、二十歳で死なうが、乃至、百歳で死なうが、皆死んでしまふ。即、生と死、差引勘定零となるのだが、即ちこの零、即死なるものに於ては一だが、其の死に至る間のプロセスに至つては、実に、千変万化である。どんなプロセスでも、死に至ると零となるけれ共、其零となる所以のものを考へて見るのは、面白くない事ではない。否、人生の楽しむ可き処は、そのプロセスに有るのだ。プロセスの原で、人間は操られて居るのではないか。此所に於てか、此の「零」なる物の価値や、中々重大なる物と云はねばならない。換言すれば、零は同じく零であつても、零の属性が異つて居るのだ。人間は、此の属性の異なる可き処に、多大の趣味を持つて働いてゐる。又、そーしなければならないのだ。
話が、えらく横丁の方へ這入つて居たが、扨、俺等が、此の自治寮に持つて来られた、と直ぐ分れ/\にされて、俺は北寮と云ふ処に行く事となつた。此所にも俺の仲間が五つ計り居つたが、一処に集つて居る事の出来ないのが、俺等の性分なので、一ツ/\離れて、そして、明けても晩れても、ヂツとして居るのだ。嗚呼、俺とイツシヨに持つて来られた連中は、今頃、何処にどーして居るだらうと思ふと、さすがに初旅の、心細くないでも無かつた。それに、俺等の役目は夜働くので、盗棒では無いよ、夜と云へば、総ての物は皆、地平線下に這入つてしまふ時だのに、物好きにも、一人起きてゐるのかと思へば、つく/″\、人間が恨めしい。何だつて、俺等を夜働かせるのは、人間がそーさせるからだもの。人間位、悪好者な者はない。しかも、針の穴程の知恵を持つて居て、それで、自惚加減と来たら、まるで、御話しにならない奴さ。第一人間を製造する事が出来ない様な知恵で以て、それで万物の霊長とはどーした者だ。動物には理性が無いだの、猿には毛が三本足りないだの、大きな御世話だ。乃至、鳥は空を飛ぶ物だの、飯は食ふものだの、しかも俺等の仲間は生命なきもの、意識なきもの也と、抜かすではないか、チヤンチヤラ可笑しくつて、御臍が御茶を湧かして、煮えてこぼれてしまふは、人間が勝手にこしらへた、一人ヨガリの理窟とか、道理とか云ふものを見給へ、こんな、愚にも付かん事が、よく云はれた物さ。俺見たいな物でも思ふね。人間のする事、なす事、云ふ事、皆、何等かの(仮定)と云ふ物を宥《ゆる》して居るのだ。「仮定」の二字を人間から取つてしまつたら、人間はどーする気だらう。それこそ、二進《につち》も三進《さつち》も、動きが取れた物では無い。学者と云ふ人間の口から、「此の仮定をゆるして」と云ふ言葉を取つてしまつたら、後には、何が残つて居るだらう。しかも、此仮定が永久に説明の出来んものだから、猶更、面白いではないか。〇《ゼロ》とは何だ、一とは何、一と一と加へて二となるとは何だ、一と一とを加へ二となると云ふ仮定を「宥す」と云ふなら、一と一を加へて三となるといふ仮定も「宥され」ないと云ふ理窟は、俺等の世界には無いのだ。
要するに、二にならうが、三にならうが、随意に宥すのだから、泥田から出て来た足さ。こんな幼稚な事で満足して居て、しかも、俺等の事は、生なき物だと云ふ人間は、どこ迄馬鹿だらう、ズー/\しいだらう。俺等の仲間で話しあふ言葉、成程、人間には解らないだらう。併し、解らないからつて、有る物は矢張り有る。昼でも空には星がある。もし夜と云ふ物がなかつたら、人間には、美しい星の輝きは、永久に見られなかつただらう。
人間の知恵といふ奴は、大凡、こんな物だ。こんな話は抜きにして、此の北寮には、学生が七十人計り居る。但し、女は一人も居ない。必ずやなれば、洗濯屋の婆々だらう。名は体を現はすと云ふから、北寮丈に、ホク/\してゐるかと思つたが、年中、苦虫を噛みつぶした様な婆々さ。俺が北寮へ来てから二三日の間は、只ブラ/\と、さして大変動もなく暮して居たが、いやどーも、其の騒がしい事、汚い事。笑ふ、叫ぶ、唸る、泣きはしまいが、塵埃濛々然としてゐる中で、騒ぐは/\。三日目の晩、これが、俺の生涯忘れられないと云ふ日だ。なに老爺の命日だらう。それ処の話ではないさ。その晩にあつた事は、それから、
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