ヌ《みなしご》たるを以てにあらずや。
名よりして言はんか、我は貴族にあらず。されど心よりして觀んか、我|豈《あに》賤人ならんや。されば我は人に侮蔑せらるゝごとに、必ず深き苦痛を忍べり。いかなれば我は赤心を棒げて人々に依頼せしに、人々は我をして鹽の柱と化すること彼ロオト[#「ロオト」に傍線](亞伯拉罕《アブラハム》の甥《をひ》)が妻の如くならしめしぞ。是に於いてや、悖戻《ぼつれい》の情は一時我心上に起り來りて、自信自重の意識は緊縛をわが恆《つね》の心に加へ、此緊縛の中よりして、増上慢の鬼は昂然として頭を擡《もた》げ、我をして平生我に師たる俗客を脚底に見下さしめ、我耳に附きて語りて曰はく。汝の名は千載の後に傳へらるべし。彼の汝に師たるものゝ名は、これに反して全く忘らるべし。縱令《たとひ》忘られざらんも、その偶※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》存ずるは汝が囹圄《れいご》の桎梏《しつこく》として存じ、汝が性命の杯中に落ちたる毒藥として存ずるならんといふ。われはタツソオ[#「タツソオ」に傍線]の上をおもへり。矜持《きようぢ》せるレオノオレ[#「レオノオレ」に傍線]よ。驕傲《けうがう》なるフエルララ[#「フエルララ」に二重傍線]の朝廷よ。その名は今タツソオ[#「タツソオ」に傍線]によりて僅に存ずるにあらずや。當時の王者の宮殿は今瓦石の一|堆《たい》のみ、その詩人を拘禁せし牢舍《ひとや》は今巡拜者の靈場たりなどゝおもへり。此の如き心の卑むべきは、われ自ら知る。されど所謂教育は我をして此の如き心を生ぜしめざること能はず。われ若し彼教育を受けて、此心をだに生ぜざりせば、われは性命を保ちて今に到るに由なかりしなり。わが潔白なる心、敬愛の情は、一言の奬勵、一顧の恩惠を以て雨露となしゝに、人々は却りて毒水を灌《そゝ》ぎてこれを槁枯《かうこ》せしめしなり。
今の我は最早昔の如き無邪氣の人ならず。さるを人々は猶無邪氣なるアントニオ[#「アントニオ」に傍線]と呼べり。今の我は斷えず書《ふみ》を讀み、自然と人間とを觀察し、又自ら我心を顧みて己の長短利病を審《つまびらか》にせんとせり。さるを人々は始終物學びせぬアントニオ[#「アントニオ」に傍線]と呼べり。この教育は六年の間續きたり、否、七年ともいふことを得べし。されど六とせ目の年の末には、早く多少の風波の我生涯の海の面に噪《さわ》ぎ立つを見たり。この教育の六年の間、猶書かまほしき事なきにあらねど、今より顧みれば、皆流れて毒水一滴となり了《をは》んぬ。こは門地なく金錢なき才子の常に仰ぎ常に服するところのものにして、此毒水は此類の才子の爲には、人の呼吸するに慣れたる空氣に異ならずともいふべきならん。
われは「アバテ」となりぬ。われは又即興詩人として名を羅馬人の間に知られぬ。そは「チベリナ」學士會院(アカデミア、チベリナ)の演壇の、我が上りて詩稾《しかう》を讀み、又即興詩を吟ずることを許しゝがためなり。されどフランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君は、會院の吟誦には喝采を得ざるものなしといふをもて、わが自負の心を抑へ給へり。
ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]は會院中の最も名高き人なり。その名の最も高きは、その演説し著述することの最も多きがためなり。院内の人々は一人としてハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]の※[#「こざとへん+匚<夾」、119−上17]陋《けふろう》にして友を排し、褒貶《はうへん》並に過《あやま》てるを知らざるものなし。されど人々は猶この翁の籍を會院に掲ぐるを甘んじ允《ゆる》せり。ハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]は愈※[#二の字点、1−2−22]意を得て、只管《ひたすら》書きに書き説きに説けり。ある日我詩稾を閲《けみ》し、評して水彩畫となし、ボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]家の人々に謂ふやう。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]に才藻の萌芽ありしをば、嘗て我生徒たりしとき認め得たりしに、惜いかな、其芽は枯れて、今の作り出すところは畸形の詩のみ。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]は古の名家の少時の作を世に公《おほやけ》にせしものあるを見て、或はおのれのをも梓行《しかう》せんとすることあらんか。そは世の嘲《あざけり》を招くに過ぎず。願はくは人々彼を諫《いさ》めて、さる無謀の企《くはだて》を思ひ留まらしめ給へとぞいひける。
アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が上はつゆばかりも聞えざりき。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は我が爲めには隔世の人たり。されどこの女子は死に臨みて、その冷なる手もて我胸を壓し、これをして事ごとに物ごとに苦痛を感ずることよの常ならざらしめしなり。ナポリ[#「ナポリ」に二重傍線]の旅と當時の記憶とは、なつかしく美しきものながら、今はその美しさの彼《かの》メヅウザ[#「メヅウザ」に傍線]に逢ひて化石したるにはあらずやとおもはれたり。(メヅウザ[#「メヅウザ」に傍線]は希臘神話中の恐るべき處女神にして、之を視るものは忽ち石に化したりといふ。)煖き巽風《シロツコ》の吹くごとに、われはペスツム[#「ペスツム」に二重傍線]の温和なる空氣をおもひ出して意中にララ[#「ララ」に傍線]が姿を畫き、ララ[#「ララ」に傍線]によりて又その邂逅の處たる怪しき洞窟に想ひ及びぬ。われは彼《かの》物教へんとする賢き男女の人々の間に立ちて、上校の兒童の如くなるとき、心にはむかし賊寨《ぞくさい》にて博せし喝采と「サン、カルロ」座にて聞きつる讙呼《くわんこ》の聲とを思ひ、又人々の我を遇すること極めて冷なるが爲めに、身を室隅に躱《さ》けたるとき、心にはむかしサンタ[#「サンタ」に傍線]がもろ手さし伸べて、我を棄てゝ去らんよりは寧ろ我を殺せと叫びしことをおもひぬ。六とせは此の如くに過ぎ去りて、我齡は二十六になりぬ。
小尼公
フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]公子とフランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]夫人との間に生れし姫君の名をばフラミニア[#「フラミニア」に傍線]といひぬ。されど搖籃の中にありて、早く神に許嫁《いひなづけ》せさせ給ひしより、人々|小尼公《アベヂツサ》とのみ稱ふることゝなりぬ。この小尼公には、むかし我手にかき抱きて、をかしき畫などかきて慰めまつりし頃より後、再び見《まみ》ゆることを得ざりき。小尼公は教育の爲めにとて、四井街《クワトロ、フオンタネ》の尼寺にあづけられ給ひしより、早や六とせとなりぬ。境内《けいだい》を出で給ふことなく、母君なるフランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の夫人ならでは往きて逢ふことを許されねば、父君すら一たびも面を合せ給ふことあらざりき。われ等は唯だ人傳《ひとづて》に姫君の今は全く人となり給ひて、その學藝をさへ人並ならず善くし給ふを聞きしのみ。
寺の掟《おきて》に依るに、凡そ尼となるものは、授戒に先だてる數月間親々の許に還り居て、浮世の歡《よろこび》を味ひ盡し、さて生涯の暇乞して俗縁を斷つことなり。この時となりて、再び寺に入るとそが儘我家に留まるとは、その女子の意志の自由に委《ゆだ》ぬといへど、そは只だ掟の上の事のみにて、まことは幼きより尼の裝《よそほひ》したる土偶《にんぎやう》を翫《もてあそ》ばしめ、又寺に在る永き歳月の間世の中の罪深きを説きては威《おど》しすかし、寺院の靜かにして戒行の尊きを説きては勸め誘《いざな》ひ、必ず寺に歸り入らしむる習なりとぞ。
是より先きわれは四井街の邊を過ぐるごとに、この尼寺の築泥《ついぢ》の蔭にこそ、わが嘗て抱き慰めし姫君は居給ふなれ、今はいかなる姿にかなり給ひしと、心の内におもひ續けざることなかりき。一日《あるひ》われは尼寺に往きて、格子の奧にて尼達の讚美歌を歌ふを聽きしことあり。あの歌ふ人々の間に小尼公《アベヂツサ》はおはさずやとおもひしかど、流石《さすが》心に咎められて、教子《をしへご》として寺に宿れるものゝ、彼歌樂の群に加はるや否やを問ひあきらむることを果さゞりき。既にしてわれはこのもろ聲の中より、一人の聲の優れて高く又清く、一種言ふべからざる凄切《せいせつ》の調《しらべ》をなせるものあるを聞き出しつ。その聲のアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が聲にいと好く似たりければ、把住《はぢゆう》し難き我空想は忽ちはかなき舊歡の影をおもひ浮べて、彼ボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]家の少女の事を忘れぬ。
次の月曜日にはフラミニア[#「フラミニア」に傍線]こそ歸り來べけれと、老公|宣給《のたま》ひぬ。この詞はあやしく我情を動して、その人と成りしさまの見まほしさはよの常ならざりき。想ふに小尼公も亦我と同じき籠中《こちゆう》の鳥なり。こたび家に歸り給ふは、譬へば先づ絲もてその足を結びおき、暫し籠より出だして※[#「皐+羽」、第3水準1−90−35]翔《かうしやう》せしむるが如くなるべし。傷《いた》ましきことの極《きはみ》ならずや。
わが姫の面を見しは午餐《ひるげ》の時なりき。げに人傳に聞きつる如くおとなびて見え給へど、世の人の美しとてもてはやす類《たぐひ》の姿《すがた》貌《かほばせ》にはあらざるべし。面の色は稍※[#二の字点、1−2−22]蒼かりき。唯だ惠深く情厚きさまの、さながらに眉目の間に現れたるがめでたく覺えられぬ。
食卓に就きたるは近親の人々のみなり。されど一人の姫に我の誰なるを告ぐるものなく、姫も又我面を認め得ざるが如くなりき。さてわれは姫に對《むか》ひてかたばかりの詞を掛けしに、その答いと優しく、他の親族の人々と我との間に、何の軒輊《けんち》するところもなき如し。こは此|御館《みたち》に來てより、始ての※[#「疑のへん+欠」、第3水準1−86−31]待《もてなし》ともいひつべし。
人々は打解けてくさ/″\の物語などし、姫は笑ひ[#「笑ひ」は底本では「答ひ」]給ふ。われは覺えず興に乘じて、その頃羅馬に行はれたりし一口話を語りぬ。姫はこれをも可笑《をか》しとて笑ひ給ふに、外の人々は遽《には》かに色を正して、中にもかゝる味なき事を可笑しとするは何故ならんなどいふ人さへあり。われ。しか宣給《のたま》へど、今語りしは近頃流行の一口話にて、都人士のをかしとするところなるを奈何《いかに》せん。夫人。否、おん身の話は掛詞《かけことば》の類のいと卑しきをさげとせり。人の腦髓のかくまで淺はかなる事を弄ぶことを嫌はざるは、げに怪しき限ならずや。嗚呼、我とても爭《いか》でかことさらに此の如き事のために、我腦髓を役せんや。我は唯だ世の人の多く語るところにして、我が爲めにもをかしとおもはるゝものなるからに、人々の一粲《いつさん》を博する料《しろ》にもとおもひし迄なり。
日暮れて客あり。數人の外國人《とつくにびと》さへ雜りたり。われは晝間の譴責《けんせき》に懲りて、室の片隅に隱れ避け、一語をだに出ださゞりき。人々は圈《わ》の形をなして、ペリイニイ[#「ペリイニイ」に傍線]といふものゝめぐりに集へり。この人は齡《よはひ》略《ほ》ぼ我と同じくして、その家は貴族なり。心爽かにして頓智あり、會話も甚《いと》巧《たくみ》なれば、人皆その言ふところを樂み聽けり。忽ち人々の一齊に笑ふ聲して、老公の聲の特《こと》さらに高く聞えければ、われは何事ならんとおもひつゝ、少しく歩み近づきたり。然るに我は何事をか聞きし。晝間我が語りて人々の咎に逢ひし、彼《かの》一口話は今ペリイニイ[#「ペリイニイ」に傍線]の口より出でゝ人々に喝采せらるゝなりき。ペリイニイ[#「ペリイニイ」に傍線]は一句を添へず又一句を削《けづ》らず、その口吻態度|些《ちと》の我に殊なることなくして、人々は此の如く笑ひしなり。語り畢る時、老公は掌《たなぞこ》を撫して、側に立ちて笑ひ居たる姫に向ひ、いかにをかしき話ならずやと宣給へり。姫、まことに仰せの如くに侍り、けふ午《ひる》の食卓にて、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]が語りし時より然《し》かおもひ侍りきと答へ給ふ。そ
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