ンて行かじといふを、公子強ひて説き勸め、草木生ひたりと見ゆる岸邊をさして漕ぎ近づかせしに、程近くなるに從ひて、人の僵《たふ》れ臥したりと覺しきを認め、さてこそ我を救ひ取り給ひしなれ。われは緑なる灌木の間に横はり、我衣は濱風に吹かれて半ば乾きたりしなり。公子は舟人して我を舟に扶《たす》け載せしめ、おのれの外套もて被ひ、手の尖《さき》胸のあたりなど擦《す》り温めつゝ、早く我呼吸の未だ絶え果てぬを見給ひぬといふ。われはかくてこゝに伴はれ、醫師《くすし》の治療を受けつるなりけり。
さればジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]と二人の舟人とは魚腹に葬《はうむ》られて、われのみ一人再び天日を見ることゝなりしなり。人々は我に當時の事を語らしめたり。われは光まばゆき洞窟の中に醒《さ》めしを姶とし、目しひたる少女を載せ來し翁に遭へるに至るまで、そのおほよそを語りしに、人々笑ひて、そは熱ある人の寒き夜風に觸れ、半醒半夢の間にありて妄想せるならんといへり。げにわれさへ事の餘りに怪しければ、夢かと疑ふ心なきにしもあらねど、また熟※[#二の字点、1−2−22]《つく/″\》思へばしかはあらじと思ひ返さざることを得ず。かへす/″\も奇《く》しく怪しきは、彼洞天の光景と舟中の人物となり。
我物語を傍聽《かたへぎゝ》せし醫師は公子に向ひ頭を傾けて、さては君の此人を搜し得給ひしは彼魔窟の畔《ほとり》なりけるよといひぬ。公子。さなり。さりとて君は世俗のいふ魔窟に、まことに魔ありとは、よも思ひ給はじ。醫師。そは輒《たやす》く答へまつるべうもあらぬ御尋なり。自然は謎語《なぞ》の鉤鎖《くさり》にして吾人は今その幾節をか解き得たる。
我心は次第に爽かになりぬ。抑※[#二の字点、1−2−22]《そも/\》わが見し洞窟はいかなる處なりしぞ。舟人の物語に、この石門の奧に光りかゞやくところありといひしは、わが漂《たゞよ》ひ着きし別天地を斥《さ》して言へるにはあらざるか。かの怪しき翁の舟の、狹き穴より濳《くゞ》り出しをば、われ明かに記憶せり。夢まぼろしにてはよもあらじ。さらば彼洞窟は幽魂の往來《ゆきき》するところにして、我は一たび其境に陷り、聖母《マドンナ》の惠によりて又|現世《うつしよ》に歸りしにや。われはかく思ひ惑《まど》ひつゝも、わが掌《たなぞこ》を組み合せて彼舟中の少女の上を懷ひぬ。まことに彼少女は我を救へる天使なりき。
年經て我夢の夢に非ざることは明かになりぬ。彼洞窟は今カプリ[#「カプリ」に二重傍線]島の第一勝、否伊太利國の第一勝たる琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]洞《らうかんどう》(グロツタ、アツウラ)にして、舟中の少女も亦實にかのペスツム[#「ペスツム」に二重傍線]の瞽女《ごぜ》ララ[#「ララ」に傍線]なりしなり。
歸途
公子夫婦は我を率《ゐ》て拿破里《ナポリ》に歸らんために、猶カプリ[#「カプリ」に二重傍線]に留まること二日なりき。二人の我を待つ言動は、始の程こそ屡※[#二の字点、1−2−22]我感情を傷《そこな》ふこともありつれ、遭難の後病弱の身となりては、親族にも稀なるべき人々の看護の難有《ありがた》さ身にしみて、羅馬へ伴ひ行かんと云はるゝが嬉しとおもはるゝやうになりぬ。そが上かの洞窟の内に遭遇せし怪異と、萬死を出でゝ一生を獲たる幸とは、いたくわが興奮したる腦髓を刺戟して、我をして無形の威力の人の運命を左右することの復た疑ふべからざるを思はしめぬれば、我は公子夫婦の羅馬へ往けと勸め給ふを聞きても、又直ちにその聲を以て運命の聲となさんとしたり。わが健康の漸く故《もと》に復《かへ》らんとする頃、公子夫婦は又我床頭にありて、何くれとなく語り慰め給ひき。夫人。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。おん身の往方《ゆくへ》まだ知れざりし程は、我等は屡※[#二の字点、1−2−22]おん身の爲めに泣きぬ。おん身の不思議に性命を全うせしは、聖母の御惠なりしならん。今はおん身情|強《こは》きも、よも再び拿破里に住みて、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]と面をあはせんとは云はぬならん。公子。そは勿論なるべし。われ等は只だ羅馬に伴ひ歸りて、曾て過《あやまち》ありしアントニオ[#「アントニオ」に傍線]は地中海の底の藻屑となりぬ、今こゝに來たるはその昔幼く可哀《かは》ゆかりしアントニオ[#「アントニオ」に傍線]なりと云はん。夫人。さるにても便《びん》なきはジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]なり。才も人に優れ情《なさけ》も深かりしものを、いかなれば神は末猶遠き此人の命を助けんとはし給はざりけん。惜みても餘あることならずやなど宣給《のたま》へり。
醫師《くすし》は屡※[#二の字点、1−2−22]病牀をおとづれて、數時間を我室に送れり。この人は拿破里に住みて、いまは用事ありて此カプリ[#「カプリ」に二重傍線]に來居《きゐ》たるなりといふ。第三日に至りて、醫師我を診して健康の全く故《もと》に復《かへ》りたるを告げ、己れも我等の一行と共に歸途に就きぬ。醫師の我を健全なりといふは、形體上より言へるにて、若し精神上より言はゞ、われは自ら我心の健全ならざるを覺えき。わが少壯の心は、かの含羞草《ねむりぐさ》といふものゝ葉と同じく萎《しぼ》み卷きて、曩《さき》に一たび死の境界に臨みてよりこのかた、死の天使の接吻の痕は、猶明かに我額の上に存せり。公子夫婦の我と醫師とを引き連れて舟に上り給ふとき、我は澄み渡れる海水を見下《みおろ》して、忽ち前日の事を憶ひ起し、激しく心を動したり。今日影のうらゝかに此積水の緑を照すを見るにつけても、我は永く此底に眠るべき身の、恙《つゝが》なくて又此天日の光に浴するを思ひ、涙の頬に流るゝを禁ずること能はざりき。人々は皆優しく我を慰めたり。フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君は我才を稱へ、我を呼びて詩人となし、醫師に我が拿破里の劇場に上りて、即興詩を歌ひしことを語り給ひしに、醫師驚きたる面持《おももち》して、さてはかの謳者《うたひて》は此人なりしか、公衆の稱歎は尋常《よのつね》ならざりき、重ねて技《わざ》を演じ給はゞ、世に名高き人ともなり給はんものをなどいへり。風の餘り好かりければ、初めソレントオ[#「ソレントオ」に二重傍線]より陸《くが》に上るべかりし航路を改め、直ちに拿破里の入江を指して進むことゝなりぬ。
われは拿破里の旅寓《はたご》に入りて、三通の書信に接したり。その一は友人フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]が手書なり。フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]はきのふイスキア[#「イスキア」に二重傍線]の島に遊び、三日の後ならでは還らずとの事なりき。明日《あす》の午頃には人々こゝを立たんと宣給《のたま》へば、われはこの唯だ一人なる友にだに、暇乞《いとまごひ》することを得ざらんとす。その二はわが宿を出でし次の日に來しものなる由、房奴《カメリエリ》われに語りぬ。これを讀むに唯だ二三行の文あり。心誠なるものゝおん身の爲め好かれとおもへるありて、今宵おん身の來まさんことを願ふとのみ書きて、末に昔の友なる女と署し、會合の家を指し示せり。其三はこれと同じ手して書けるものなり。その文左の如くなりき。
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よしなき御疑念など起し給はで、御出下されかしと、ひたすら御待申上候。御別申上候節は、實に思ひ掛けぬ事にて、胸騷ぎ魂消えて、申上ぐべき詞をもえ辨《わきま》へ侍らざりしかど、今は御許にても、あわたゞしかりし當時の事を思ひ棄て給ひつらんと存じ候。御許にて思ひ違《たが》へ給ひしにはあらずやと思はるゝ節も候へども、そはすべて御目にかゝりたる上にて申解くべく候。只だ一刻も早く御目にかゝり度御待申上ぐるより外無御座《ほかござなく》候。かしこ。
[#ここで字下げ終わり]
末には又昔の友なる女と署したり。會合の家は知らぬ巷《ちまた》に在れど、サンタ[#「サンタ」に傍線]ならではかゝる文書くべき婦人あるべうもあらず。われは今更彼婦人に逢ひて何とかすべきと思ひぬれば、御返事もやあると促《うなが》しに來し男を呼び入れて、詞短かにいひぬ。われは遽《には》かに思ひ定むる事ありて、拿破里を去らんとす。今までの厚き御惠は誓ひて忘れ侍らじ。御目に掛かりて御暇乞すべきなれど、あわたゞしき折なれば、唯だこの由御使に申すなりといひぬ。フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]には數行の書を作りて遺し置きつ。その概略《あらまし》は今物書くべき心地もせねば、精《くはし》しき事の顛末をば、羅馬に到り着きて後にこそ告ぐべけれ、手を握らで別れ去ることの心苦しさを察せよといふ程の意《こゝろ》なりき。
暇乞にとては、何處へも往かざりき。街上にてベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]の面を見んことの影護《うしろめた》く、又此地に來てより交を結びし人には、相見んことの願はしくもあらねば、われは旅寓の一室にたれこめて此日を暮さんとおもひ居たり。さるを公子の車を誂へ置きたれば、共に醫師の家訪はずやと宣給ふがことわりなれば、隨ひて行きぬ。小く心安げなる家にて、年|長《た》けたる姉の家政を掌《つかさど》れるあり。質直なる性質眉目の間に現はれて、むかしカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野邊にありける時、鞠育《きくいく》の恩を受けしドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]に似たるところあり。されど此は教育ある人なれば、起居振舞のみやびやかなる、いろ/\なる藝能ある抔《など》、日を同じうして語るべくもあらざるなるべし。
翌朝われは先づヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の山を仰ぎ見て別を告げたり。嶺《いたゞき》は深く烟霧の裏《うち》に隱れて、われに送別の意を表せんともせざる如し。是日《このひ》海原はいと靜にして、又我をして洞窟と瞽女《ごぜ》との夢を想はしむ。嗚呼《あゝ》、此拿破里の市も、今よりは同じ夢中の物となり了《をは》るならん。
房奴《カメリエリ》はけふの拿破里日報(ヂアリオ、ヂ ナポリ)を持ち來りぬ。披《ひら》きて見れば、我《わが》假名《けみやう》あり。さきの日の初舞臺の批評なりき。いかなる事を書けるにかと、心|忙《せは》しく讀みもて行くに、先づ空想の贍《ゆたか》にして、章句の美しかりしを稱《たゝ》へ、恐らくは是れパンジエツチイ[#「パンジエツチイ」に傍線]の流を酌《く》めるものにて、摸倣の稍※[#二の字点、1−2−22]甚しきを嫌ふと斷ぜり。パンジエツチイ[#「パンジエツチイ」に傍線]といふ人はわれ夢にだに見しことあらず。われは唯だ我天賦の情に本《もと》づきて歌ひしなり。想ふに彼批評家といふものは、おのれ常に摸擬の筆を用ゐるより、人の藝術も亦|然《しか》ならんと思へるにやあらん。末の方には例に依りて、奬勵の語を添へたり。いはく。此人終に名を成すべき望なきにあらず、今の見る所を以てするも、猶非凡なる材能たることを失はざるべし、空想感情靈應の諸性具備したりと見ゆればなりとあり。此評は惡しき方にはあらねど、當日の公衆の喝采に比ぶるときは、その冷かなること著《いちじる》しとおもはる。われは此新聞紙を疊みて行李の中に藏《をさ》めたり。そは他年わが拿破里の遭遇の悉く夢ならぬを證せん料《しろ》にもとてなり。嗚呼、われ拿破里を見たり、拿破里の市を彷徨《はうくわう》せり。わが得しところそも幾何《いくばく》ぞ、わが失ひしところはたそも幾何ぞ。知らず、フルヰア[#「フルヰア」に傍線]の預言は既に實現し盡せりや否や。
われ等は拿破里を出立《いでた》ちたり。葡萄栽ゑたる丘陵は見る/\烟雲の間に沒せり。一行は羅馬に向ひて行くこと四日なりき。わが行くところの道は、二月の前にフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]、サンタ[#「サンタ」に傍線]の二人と與《とも》に行きし道なりき。モラ[#「モラ」に二重傍線]の旅亭に來て見れば、柑子の林は今花の眞盛なり。われは再び我《わが》祕言《ひめごと》をサンタ[#「サンタ」に傍線]に偸《ぬす》み聽かれし木蔭に立寄りたり。人の離合聚散の測り難きこと、また今更に
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