ホひつゝ、掌《たなぞこ》を我肩上に置きて、晝見つる美人の爲めに思を勞すること莫《なか》れといふ。われ。然《し》か宣給《のたま》へど、接吻をばわれ博し得たり。渠《かれ》。そは固《もと》よりなり。されどわれを始終|繼子《まゝこ》たりしものとな思ひそ。われ。繼子たりしや否やは知らず。唯だ繼子らしかりしは事實なり。渠。われは未だ曾て繼子たりしことなし。おん身若し能く祕密を守らば、われは敢て告ぐるところあらんとす。われ。何事まれ語り給へ。われは誓ひて餘所《よそ》に洩さゞるべし。渠。さらば包まず語るべし。われは歸るさに故意《わざ》と手帳を遺《わす》れ置きぬ。そは日暮れて再び往かん爲めなり。原《も》と女といふものは、只二人居向ひては頑《かたくな》ならぬが多し。さて我は再び往きぬ。衣の綻びたるは、墻《かき》踰《こ》え籬《まがき》を穿《うが》ちし時の過《あやまち》なり。われ。さらば女はいかなりし。渠。晝見しよりも美しかりき。美しくして頑《かたくな》ならざりき。わが預《あらかじ》め度《はか》りし如く、さし向ひとなりては何のむづかしき事もなかりき。おん身が得しは只一つの接吻なりしが、わが得しは千萬にて總て殘る隈《くま》なき爲合《しあはせ》なりき。これよりはその時のさまを樂しき夢に見んとぞおもふ。便《びん》なきアントニオ[#「アントニオ」に傍線]よと語りもあへず、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]はおのが臥房《ふしど》に跳り入りぬ。
たつまき
僧堂を辭し去る朝《あした》、大空は灰色の紗《うすぎぬ》を被せたる如くなりき。岸には腕たしかなる漕手《こぎて》幾人か待ち受け居て、一行を舟に上らしめたり。纔《ともづな》を解きてカプリ[#「カプリ」に二重傍線]に向ふ程に、天を覆ひたりし紗は次第に斷《ちぎ》れて輕雲となり、大氣は見渡す限澄み透りて、水面には一波の起るをだに認めず。美しきアマルフイイ[#「アマルフイイ」に二重傍線]は巖のあなたに隱れぬ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は後《しりへ》を指ざして、かしこにてはわれ薔薇を摘み得たりと云ふ。われは頷《うなづ》きて、心の中にはこの男の強顏《きやうがん》なることよ、まことは刺《はり》に觸れて自ら傷けしものをとおもひぬ。
舟のゆくては杳茫《えうばう》たる蒼海にして、その抵《いた》る所はシチリア[#「シチリア」に二重傍線]の島なり、あらず、亞弗利加《アフリカ》の岸なり。ゆん手の方は巖石屹立したる伊太利の西岸にして、所々に大なる洞穴あり。洞前に小村落あるものは、其幾個の人家、わざと洞中より這ひ出でゝ、背を日に曝《さら》すものゝ如く、洞の直ちに水に臨めるものゝ前には漁人の火を焚き食を調へ又は小舟に※[#「父/多」、第4水準2−80−13]兒《チヤン》を塗れるあり。
舷下の水は碧《あを》くして油の如し。試みに手をもて探れば、手も亦水と共に碧し。舟の影の水に落ちたるは極て濃き青色にして、艪《ろ》の影は濃淡の紋理ある青蛇を畫けり。われは聲を放ちて叫びぬ。げに美しきは海なる哉。若し彼蒼《ひさう》の大いなるを除かば、何物か能く之と美を※[#「女+貔のつくり」、110−上段−20]《くら》ぶべき。我は幼かりし時、地に仰臥して天を觀つるを思ひ出でぬ。今見る所の海は即ち當時見し所の天にして、譬へば夢の一變して現《うつゝ》となれるが如し。
舟はイ、ガルリ[#「イ、ガルリ」に二重傍線]といふ巖より成れる三|小嶼《せうしよ》の傍を過ぎぬ。そのさま海底より石塔を築き上げて、その上に更に石塔を僵《たふ》し掛けたる如し。青き波は緑なる石を洗へり。想ふに風雨一たび到らば、このわたりは群狗《ぐんく》吠ゆてふ鳴門《なると》(スキルラ)の怪《くわい》の栖《すみか》なるべし。
不毛にして石多きミネルワ[#「ミネルワ」に二重傍線]の岬《みさき》は、眠るが如き潮《うしほ》これを繞《めぐ》れり。いにしへ妙音の女怪の住めりきといふはこゝなり。而してカプリ[#「カプリ」に二重傍線]の風流天地はこれと相對せり。いにしへチベリウス[#「チベリウス」に傍線]帝が奢《おごり》をきはめ情を縱《ほしいまゝ》にし、灣頭より眸を放ちて拿破里《ナポリ》の岸を望みきといふはこゝなり。
舟人は帆を揚げたり。我等は風と波とに送られて、漸くカプリ[#「カプリ」に二重傍線]の島邊に近づきぬ。水のまことの清さ、まことの明《あか》さを知らんと欲せば、この海を見ざるべからず。舷に倚りて水を望めば、一塊の石、一叢の藻、歴々として數ふべく、晴れたる日の空氣といへども、恐らくはこの玲瓏《れいろう》透徹なからんとぞおもはるゝ。
カプリ[#「カプリ」に二重傍線]の島は唯だ一面の近づくべきあるのみ。その他は皆|削《けづ》り成せる斷崖にして、その地勢拿破里に向ひて級を下るが如く、葡萄圃と橘柚《オレンジ》橄欖《オリワ》の林とは交る/″\これを覆へり。岸に沿へる處には、數軒の蜑戸《たんこ》と一棟《むね》の哨舍《ばんごや》とを見る。稍※[#二の字点、1−2−22]《やゝ》高き林木の間に、屋瓦の叢《そう》を成せるはアンナア、カプリイ[#「アンナア、カプリイ」に二重傍線]の小都會なり。一橋一門ありてこれに通ず。一行は棕櫚《しゆろ》の木立てるパガアニイ[#「パガアニイ」に二重傍線]が酒店の前に歩を留めつ。
我等はこゝに朝餐《あさげ》して、公子夫婦は午時《ひるどき》まで休憩し、それより驢《うさぎうま》を倩《やと》ひてチベリウス[#「チベリウス」に傍線]帝の別墅《べつしよ》の址《あと》を訪はんとす。われは憩はんこゝろなければ、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]と共に此島を一周し、南に突き出でたる大石門をも見ばやとて、漕手二人を呼び、岸なる舟に乘り遷《うつ》りぬ。
風少し起りたれば、我等は行程の半ばばかり帆の力に頼ることを得べし。巖壁に近き處には、漁人の網を張りたるあれば、舟はこれを避けて沖の方に進みぬ。既にして奇景の人目を驚すに足るものあるを見る。灰色なる巨石の直立すること千丈なるあり。その頂は天を摩し、所々僅に一石塊を容《い》るべき罅隙《かげき》を存じて、蘆薈《ろくわい》若くは紫羅欄《あらせいとう》これに生じたり。青き焔の如き波に洗はれたる低き岩根には、紅殼《べにがら》の毛星族《まうせいぞく》(クリノイデア)いと繁《しげ》く着きたるが、その紅の色は水を被《かぶ》りて愈※[#二の字点、1−2−22]紅に、岩石の波に觸れて血を流せるかと疑はる。
既にして我等は海を右にし島を左にする處に至りぬ。水を呑吐する大小の窟《いはや》許多《あまた》ありて、中には波の返す毎に僅かに其天井を露《あらは》すあり。こは彼妙音の女怪のすみかにして、草木繁茂せるカプリ[#「カプリ」に二重傍線]の島は唯だこれを蓋《おほ》へる屋上《やね》たるに過ぎざるにやあらん。
漕手の一人なる白髮の翁のいふやう。這裏《このうち》には惡しきもの住めり。人若し過《あやま》ちて此門に入るときは、多くは再びこれを出づることを得ず。その或は又出づるものは、痴なるが如く狂せるが如く、復《ま》た尋常人間の事を解せずといふ。往手《ゆくて》のかたに稍※[#二の字点、1−2−22]大なる一窟あり。されど若し舟に棹《さを》さしてこれに入らんとせば、帆を卸《おろ》し頭を屈するも、猶或は難からんか。柁《かぢ》取りの年|少《わか》き男のいふやう。これ魔窟なり。黄金珠玉その内にみち/\たれど、これを探らんとするものは妖火のために身を焚《や》かる。げにいふだに恐ろしき事なり。尊きルチア[#「ルチア」に傍線]よ、(サンタ、ルチア)我を護り給へといふ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。彼妙音の女怪の一人此舟の中に來ぬこそ殘惜しけれ。その容色はいと好しとぞ聞く。さるものを待遇せんは、わが徒《ともがら》の難《かた》んぜざるところぞ。われ。おほよそ女といふ女のおん身の言に從はぬはあらざるべければ、化《け》しやうのものなりとも、其數には洩れぬなるべし。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。接吻し囘抱するは波濤《はたう》の常態なれば、その上に泛《うか》べるものも之に倣《なら》ふべき筈ならずや。責《せめ》ては彼アマルフイイ[#「アマルフイイ」に二重傍線]の女房をなりとも、共に載せて來べかりしものを。げに得易からぬ女なり。然《しか》おもひ給はずや。おん身も一たびは彼唇の味を試み給ひぬ。われはその人前にておとなしぶりたるを怪しとおもふなり。憾《うら》むらくはおん身はその夜のさまを見給はざりき。その迎ふる情の熱さは我が送る情の熱きに讓らざりき。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]が此詞は遂に我をして耐へ忍ぶこと能はざらしむるに至りぬ。我はいと冷かに、されどわが彼《かの》夕見しところは、いたくおん詞と違《たが》へりといひぬ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は驚きたる面持《おももち》して、暫し我顏を打ち守りつゝ、何とかいふ、おん身の詞は解《げ》し難しと問ひ返しつ。われ重ねて、おん身の女子にもてはやされ給ふべきをば、われ露ばかりも疑はねど、彼夕はわれふと同じ處に落ち合ひてまことのさまを目撃したり、さればわれは始よりおん身の詞の戲言《ざれごと》なるべきを知りぬといふ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は猶|訝《いぶか》しげに我顏を見て一語をも出さゞりき。われ微笑《ほゝゑ》みつゝジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]が前夜の口吻を眞似《まね》て、おん身のけふ我に惜みて彼馬鹿者に與へ給ひし接吻を取返さでは歸らずといひたり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]の面は血色全く失せて、さてはおん身は立聞せしか、おん身は我を辱《はづかし》めたり、我と決鬪せよといふ。其聲|極《きはめ》て冷《ひやゝか》に、極てあらゝかなりき。わが實を述べたる一語の、此の如く渠《かれ》を激せんことは、わが預期せざる所なりき。われは徐《しづ》かに、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]よ、そはよも眞面目なる詞にはあらじといひて、其手を握りしに、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は手を引き面を背《そむ》け、舟人に陸《くが》に着けよと命ぜり。老いたる方の漕手答へて、舟を停むべきところは、さきに漕ぎ出でしところの外|絶《たえ》て無ければ、是非とも島を一周せでは叶はずといひつゝ、※[#「舟+虜」、第4水準2−85−82]《ろ》を搖《うごか》す手を急にしたり。舟は深碧の水もて繞《めぐら》されたる高き岩窟《いはや》に近づきぬ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]は杖を揮《ふる》ひて舷側の水を打てり。われは且怒り且悲みて、傍より其面を打ち目守《まも》りぬ。爾時《そのとき》年|少《わか》き漕手いと慌《あわた》だしく、龍卷(ウナ、トロムバ)と叫べり。その瞠視《みつめ》たる方を見れば、ミネルワ[#「ミネルワ」に二重傍線]の岬より起りて、斜に空に向ひて竪立《じゆりつ》せる一道の黒雲あり。形は圓柱の如く、色は濃墨の如し。その四邊《あたり》の水、恰も鍋中の湯の滾沸《こんふつ》せるが如くなり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]はいづかたに避くるかと問へり。少年は後々《あと/\》といへり。われ。されば又全島を巡らんとするか。少年。風なき方の岩に沿うて漕がん。龍卷は島を離れて走る如し。翁。此小舟の若し岩に觸れて碎けずば幸なり。語未だ畢らず、龍卷の嚮《むき》は一轉せり。一轉して吾舟の方に進めり。その疾《と》きこと※[#「風にょう+(犬/(犬+犬))、第4水準2−92−41]風《へうふう》の如し。舟若し高く岩頭に吹き上げられずば、必ず岩根に傍《そ》ひて千尋《ちひろ》の底に壓《お》し沈めらるべし。われは翁と共に※[#「舟+虜」、第4水準2−85−82]《ろ》を握りつ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]も亦少年を扶《たす》けて働けり。されど風聲は早く我等の頭上に鳴りて、狂瀾は既に我等の脚下に翻《ひるがへ》れり。二人の漕手は異口同音に、尊きルチア、助け給へと叫びつゝ、※[#「舟+虜」、第4水準2−85−82]を捨てゝ跪拜せり。ジエンナロ[#「ジ
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