kンチヤタ」に傍線]の性《さが》をさへ貶《おとし》め言へり。そのベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]を難ずる詞は、多少我|創痍《さうい》に灌《そゝ》ぐ藥油となりたれども、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を貶《おとし》むる詞は、わが容易《たやす》く首肯し難きところなりき。
 サンタ[#「サンタ」に傍線]のいふやう。彼女優をばわれも屡※[#二の字点、1−2−22]見き。舞臺に上る身としては、丈《たけ》餘りに低く、肌餘りに痩せたりき。拿破里にありても、若き人々の崇拜|尋常《よのつね》ならざりしが、そは聲の好かりしためなり。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が聲は人を空想界に誘ひ行く力ありき。而してその小く痩せたる身も亦空想界に屬するものゝ如くなりしなり。おん身若し我言を非《たが》へりとし給はゞ、そは猶肉身なくて此世に在らんを好しとし給ふごとくならん。假令《よしや》われ男に生るとも、抱かば折るべき女には懸想《けさう》せざるべしといへり。われは覺えず失笑せり。想ふにサンタ[#「サンタ」に傍線]は話の理に墜つるを嫌ふ性なれば、始より我を失笑せしめんとて此説をなしゝならんか。奈何《いかに》といふにサンタ[#「サンタ」に傍線]もアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が品性の高尚なると才藝の人に優《すぐ》れたるとをば一々認むといひたればなり。
 或時われは詩稿を懷にして往きぬ。こは拿破里《ナポリ》に來てよりの近業にて、獄中のタツソオ[#「タツソオ」に傍線]、托鉢僧など題せる短篇の外、無題一首ありき。われは愛情の犧牲なり。わが曾て敬し曾て愛しつる影像は、皆碎けて塵となり、わが寄邊《よるべ》なき靈魂は其間に漂へり。われはサンタ[#「サンタ」に傍線]に向ひ居て詩稿を讀み始めしに、未だ一篇を終らずして、情迫り心激し、われは鳴咽《をえつ》して聲を續《つ》ぐことを得ざりき。サンタ[#「サンタ」に傍線]は我手を握りて、我と共に泣きぬ。わがサンタ[#「サンタ」に傍線]に親むことは、此より舊に倍したり。
 サンタ[#「サンタ」に傍線]の家は我第二の故郷となりぬ。われは日ごとにサンタ[#「サンタ」に傍線]と相見て、日ごとに又その相見ることの晩《おそ》きを恨みつ。この婦人の家にあるさまを見るに、其戲謔も愛すべく其氣儘も愛すべし。これをアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の一種近づくべからず褻《な》るべからざる所ありしに比ぶれば、固《もと》より及ぶべくもあらねど、かの捉へ難き過去の幻影には、最早この身近き現在の形相《ぎやうさう》を斥《しりぞ》くる力なかりしなり。
 或時我は又サンタ[#「サンタ」に傍線]と對坐して語れり。夫人。近ごろポジリツポ[#「ポジリツポ」に二重傍線]の眺好き家と顏好き女とを尋ね給ひしか。われ。否、前後二たび往きしのみ。夫人。女は最早餘程おん身になじみしならん。子供は案内者に雇はれ、主人は漁《すなどり》に出でゝ在らざりしにはあらずや。用心し給へ、拿破里《ナポリ》の海の底は、やがて地獄なりといへば。われ。否、我心を引くものは唯景色のみなり。かの賤女《しづのめ》いかに美しとて、決して我を誘ひ寄すること能はざるべし。夫人。吾友よ、われは明におん身の心を知れり。曩《さき》にはその心に初戀の充※[#「牛+刃」、第4水準2−80−18]《きざ》したるため、些の餘地だになかりき。われは君が初戀を陋《いや》しとせざるべし。されどその敵手《あひて》なる女の、君の直きが如く直からざりしは、爭ふべからざる事實なるべし。否、我話の腰を折り給ふな。さてその初戀の眞の價《あたひ》は兎《と》まれ、角《かく》まれ、その君が心に充※[#「牛+刃」、第4水準2−80−18]したるもの、今や無慙《むざん》にも引き放ちて棄てられ、その跡は空虚になりぬ。この空虚は何物もて填《うづ》むべきか。君は昔こそ書《ふみ》を讀み空想に耽りて自ら足れりとし給ひけめ、彼女優の一たび君を現實世界に引き出したる上は、君も亦我等と同じく血あり肉ある人となり給ひて、その血その肉はその本來の權利を求めでは止まざるべし。少壯幾時かある。男兒何の敢てすべからざる事かあらん。されば我に物隱さんとし給ふには及ばざるにあらずや。われ。おん説の前半は、げにさもあるべく思はれて、空虚の事などは首肯しても好し。されどそを填めん策をば未だ講ぜしことあらず。夫人。さらば君は猶我説を問はんとし給ふか。君の既に一たび空想を出でながら、猶再びこれに還りて、一個の空想人物とならんとし給ふが怪しきなり。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は君が理想の女ならずや。高尚なる人物ならずや。それすら空想人物のアントニオ[#「アントニオ」に傍線]の君を棄てゝ、人柄下りたるベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]を取りしなり。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]も男欲しかりしなり。斯く言ひ掛けて、サンタ[#「サンタ」に傍線]は愛らしき聲して笑ひ、おん身の餘りに罪なき性《さが》なるため、我に女の口より言ひ難き事さへ言はしめ給ふこそ憎けれとて、指もて我頬を彈《はじ》きたり。
 旅店に還りて獨り思ふに、サンタ[#「サンタ」に傍線]の我を評する言は、昔ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]の我を評せし言と同じ。此頃又フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]の話を聞きしに、その羅馬にありし日の經歴には、我の夢にだに知らざるやうなることもありて、賤《いや》しきマリウチア[#「マリウチア」に傍線]さへその事に與《あづか》れりといふ。世の人はわが厭ひおそるゝところのものを悦び樂むにや。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の我を棄てゝベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]を取りしなどは、現《げ》にもこれを證して餘あるが如くなり。果して然らばアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は我感情を愛して我意志を嫌ひしにやあらん。あらず、わが意志の闕乏《けつばう》を嫌ひしにやあらん、いと覺束《おぼつか》なく心許《こゝろもと》なき事にこそ。

   絶交書

 拿破里《ナポリ》に來てより既に一月を經ぬ。さるにアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]とベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]との上に就きては、何の聞くところもあらず。或夕一封の書は到りぬ。何人のいかなる便するにかと、打ち返してこれを見るに、印はボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]家の印にして、筆は主公の筆なり。われは心に聖母《マドンナ》を祈りつゝ、開いてこれを讀みたり。其文に曰く。
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御書状拜讀|仕候《つかまつりそろ》。素《も》と拙者の貴君の御世話|可致《いたすべく》と決心候節、貴君の爲めに謀《はかり》候は、當地に於いて正當なる教育を受けられ、社會に益ある一人物となられ候樣にと希望候儀に有之《これあり》候。然處《しかるところ》貴君の行跡全く此希望と相反《あひそむき》候は、今更是非なき次第と諦念《あきらめ》候より外無之候。當初|御萱堂《ごけんだう》不幸之|砌《みぎり》、存寄《ぞんじよ》らざる儀とは申《まうし》ながら、拙者の身上共禍因と連係候故、報謝の一端にもと志候御世話も、此の如く相終候上は、最早債を償《つぐの》ひ劵《ふだ》を折候と同じく、何の恩讐《おんしう》も無之、一切|事濟《ことずみ》と看做《みなし》候て宜《よ》かるべしと存候。然上《しかるうへ》は即興詩人と爲り藝人と爲りて公衆の前に出でられ候とも、拙者に於いて故障等可申には無之候。唯此際申入置度は、後日貴君の拙者一家に於ける從來の關係等、一切口外下さる間敷《まじき》儀に御座候。生涯當家の恩義忘却致さずとは先年度々申聞けられ候處に有之候へども、拙者に報ずる所以の最大事件たる學問修行をば塵芥の如く棄てられ候て、今は其最小事件即ち拙者を呼ぶに恩人を以てせられ候儀さへ、拙者の心に屑《いさぎよし》とせざるものと成果《なりはて》候段、歎息の外無之候。草々不宣。
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 われは血の胸に迫るを覺えて、兩手《もろて》は力なく膝の上に垂れたり。泣かば心鎭まるべけれども涙出でず、祈らば力着くべけれども語《ことば》出でず。我は悶絶せる人の如く、頭を卓上に支へて坐すること良※[#二の字点、1−2−22]《やゝ》久しかりしが、其間何の思ふところもあらざりき。われは痛苦をだに明には覺えざりしなり。只だ心の底には言ふべからざる寂しさを感じて、今は聖母《マドンナ》さへ世の人と同じく我を見放し給ふかと疑ひおもへり。
 フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]はこゝに來ぬ。進みて我手を握りて云ふやう。病めるか、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]。獨り物思ふは惡しき事なり。汝はアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を失ひて不幸なりといへど、我は汝のアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を得て幸なるべかりしや否やを知らず。我經歴に徴するに、大抵わが遭逢せし所は、後に顧みるにわが最も宜《よろ》しき所なりし也。然れども運命の人を引き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すは、間※[#二の字点、1−2−22]|頗《すこぶ》る手荒きものにて、人はこれを痛苦とし不幸とするなりといふ。我は詞なくて、卓上の書状を指し、友のこれを讀む間、これに背《そむ》きて涙を拂ひつ。友は我肩を撫でゝ、泣くが好し、泣かば心落着くべしと云へり。暫しありて友は我に、此書状を見たる後、既に思ひ定むる所ありやと問ひたり。此時われは忽ち思ひ付くよしありて、友に向ひて語り出でぬ。聞け吾友、われは僧とならんとす。我は幼きより聖母《マドンナ》に仕へたるが、今思へば淺からぬ縁《えにし》ありしならん。聖母の慈悲は廣大なれば、縱《たと》ひ一たび我を棄て給ふとも、いかでか我懺悔を聞き給はざることあらん。われは空想人物にて、汝等と同じからず。世間に立ち交《まじ》るとも、何の益かあるべき。若《し》かじ、今の機到り縁熟せるを幸として、平和を寺院の中に求めんには。友。おろかなり、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]。否運《ひうん》に遭《あ》ひて志を屈せずしてこそ人たる甲斐はあれ。汝の氣力あり技倆あるを、傲慢なる羅馬の貴人《あてびと》に見せよ、世間に見せよ。詩人は賤《いや》しき業《わざ》にあらず。汝は才あり學あればこそ、詩人とならんとは思ひ立ちしなれ。汝が前途は多望なり。されどわれおもふに、わが斯く辭《ことば》を費すはいたづら事にはあらずや。汝が僧とならんといふは、けふの黄昏《たそがれ》の暗黒なる思案にて、あすは旭日の光に觸れて泡沫のごとく消え去るべきものにはあらずや。兎まれ角まれ、汝が病をばわが手ぬかりにて長じたりと覺《おぼ》し、汝は獨り籠り居て蟲をおこしたるならん。あすは車一輛|倩《こ》ひて、エルコラノ[#「エルコラノ」に二重傍線]、ポムペイ[#「ポムペイ」に二重傍線]に往き、それよりヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の山に登るべし。先づ今宵は大路《トレド》まで出でゝ、面白く時を過さん。世の中は驅足《かけあし》して行く如し。而して人々のおのが荷を負ひたり。鉛の重さなるもあり。翫具《おもちや》と一般なるもあり。友は斯く語りつゝ我を促し立てゝ出で行かんとせり。嗚呼、我にも猶此の如く慰め呉るゝ友あるこそ嬉しけれ。我は默して帽を戴き、友の後に跟《つ》きて出でぬ。

   好機會

 戸を出づれば小屋掛《こやがけ》の小劇場より賑かなる音樂の聲聞ゆ。われ等二人は群集の間に立ちてその劇場の状《さま》を看たり。夫婦と覺しき男女《なんによ》、表《おもて》をのみ飾りたる衣を纏《まと》ひて板敷の上に立ちたるが、客を喚《よ》ぶことの忙しさに、聲は全く嗄《か》れたり。色蒼ざめたる一童子「ピエロオ」(滑稽役)の服を着けて、悲しげに「ヰオリノ」彈けば、姉妹なるべし、少女《をとめ》二人のこれを繞《めぐ》りて踊るを見る。哀なるかな此人々。その運命のはかなきこと我と同じきなるべし。我は大息《ためいき》を抑へて友の肩に倚《よ》りたり。友は慰めて云ふやう。物思《ものもひ》も好き程にせよ。暫くこの邊《あたり》を
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