ォて見れば、この小家のさまの畫趣多きこと言はんかたなし。壁には近き故墟《こきよ》より掘り出したる石柱頭と石臂《せきひ》石脚とを塗り籠めて飾とせり。屋上に土を盛りて園とし、柑子《かうじ》の樹又はくさ/″\の蔓草類を栽ゑたるが、その枝その蔓四方に垂れ下りて、緑の天鵞絨《びろうど》もて掩へる如し、戸前には薔薇叢《さうびそう》ありて花盛に開けるが、殆ど野生の状《さま》をなせり。六つ七つばかりの美しき小娘二人その傍に遊び戲れ、花を摘みて環《たまき》となす。されどそれより一際《ひときは》美きは、此家の門口に立ち迎へたる女子なり。髮をば白き※[#「台/木」、第4水準2−14−45]布《あさぬの》もて束ねたり。その瞻視《まなざし》の情《なさけ》ありげなる、睫毛《まつげ》の長く黒き、肢體《したい》の品《しな》高くすなほなる、我等をして覺えず恭《うや/\》しく帽を脱し禮を施さゞること能はざらしめたり。
 ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]進み近づきて、さては此|家《いへ》あるじこそは、土地に匹儔《たぐひ》なき美人なりしなれ、疲れたる旅人二人に、一杯《ひとつき》の飮《のみもの》を惠み給はんやと云へば、いと易き程の御事なり、戸外に持ち出でてまゐらせん、されど酒は只だ一種《ひとくさ》ならでは貯《たくは》へ侍らずと笑ひつゝ答ふ。その眞白なる齒に、唇の紅はいよ/\美さを増すを覺えき。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。酒はいかなる酒にもあれ、君の酌《く》みて給はらんに、旨《うま》からぬことやはある。美しき娘の酌める酒をば、われ平生|嗜《たしな》みて飮めり。女主人《をみなあるじ》。されどけふは美しき娘のあらねば、色香なき人妻の酌みてまゐらするを許し給へ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。さらば君ははや主《ぬし》ある花となり給ひしにや、そのうら若さにて。女主人。否、われははや年多くとりたり。この時|傍聽《かたへぎき》したりしわれ、おん身の芳紀《とし》いくばくぞと問ひぬ。想ふにこの女子まだ十五ばかりなるべけれど、脊丈《せたけ》伸びて恰好《かつかう》なれば、行酒女神《ヘエベ》の像の粉本とせんも似つかはしかるべし。女主人はわが何の爲めに問ひしかを疑ふものゝ如く、我面を暫し守りて二十八歳と答へつ。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。そはまことに好き年紀《としごろ》にて、殊におん身には似あひたり。さるにても人の妻となりてより幾年をか經給《へたま》ひし。女主人。最早《もはや》十とせあまりになりぬ。かしこなる娘たちに問ひ試み給へかしといふ。この時先に門の口にて遊び居たりし二人の娘、我等が前に走り來りぬ。われは故意《わざ》と娘等に向ひて、これは汝たちの母なりやと問ひしに、娘等はゑましげに主人を見て、さなり/\と頷きつゝ右ひだりより主人に倚《よ》り添ひたり。
 女主人は酒もち來りて薦《すゝ》めたり。その味はいとめでたかりき。我等は杯を擧げてあるじの健康を祝したり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]われを指さして、この男は詩人なり、舞臺に出でゝ即興詩といふ者を歌ふを業《わざ》とす、されば拿破里《ナポリ》の婦人をばことごとく迷はしたれど、生來|頑《かたくな》なること石の如く、世に謂ふ女嫌ひなどいふものにや、まだ婦人に接吻したることなしといへり、珍らしき人にあらずやといへば、主人、さる人は世に有りがたからんとて笑へり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]語を繼ぎてわれはそれとは表裏《うらうへ》なり、あらゆる美しき女を愛し、あらゆる美しき女に接吻し、あらゆる美しき女の身方《みかた》となりて、到るところ人の心をやはらぐ、されば美しき女に接吻を求むるは我權利なり、我が受け納るべき租税なり、これをばおん身も拂ひ給はざるべからずといひて、つとあるじの手を※[#「てへん+參」、107−上段−22]《と》りたり。女主人。われは人の心やはらげ給ふといふおん惠に與《あづか》らんことをも願はず、さればさる租税をもえ納め侍らず。我租税をば、我夫自ら來りて收め取る習なり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。その夫はいづくにあるか。女主人。さまで遠からぬところにあり。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。われは拿破里に居れども、いまだかくまで美しき手を見つることあらず。此上に接吻一つせんといはゞ、價いくばくをか求め給ふ。女主人。盾銀《たてぎん》一つにては貴かるべきか。ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]。さらば盾銀二つ出さば、唇をも任せ給ふべきか。女主人。否、そは千金にも換へ難し。そは吾夫の特權なり。この對話の間、女あるじは我等に酒を侑《すゝ》めて、ジエンナロ[#「ジエンナロ」に傍線]の慣々《なれ/\》しきをも惡《にく》む色なく、尚暫く無邪氣なる應答をなし居たり。我等はあるじのまことは十四歳にて
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