ニ見えたり。物語のはし/″\より推するに、姫が過ぎ來し方のおほかたは明かになりぬ。姫は西班牙《スパニア》に生れき。父も母も彼國の人なり。穉くて羅馬に來つるに、ふた親はやく身まかりて、頼るべき方もなし。猶太の翁ハノホ[#「ハノホ」に傍線]は西班牙に旅せしころ、彼親達を識りつれば、孤兒を引き取りて養へりしに、故郷なる某《それ》の貴婦人あはれがりて迎へ歸り、音樂の師に就きて學ばしめき。その頃某の貴公子この若草手に摘まばやとてさま/″\のてだてを盡しゝに、姫の餘りにつれなかりしかば、公子その恨にえたへで、果はおそろしき計《はかりごと》をさへ運《めぐ》らしつ。その始末をば媼深く祕めかくす樣なれど、姫の命も危《あやふ》かるべき程の事なりきとぞ。姫は彼公子に索《たづ》ね出されじとて、再び羅馬に逃れ來たり。かくて昔のやしなひ親にたよりて、人目少き猶太廓《ゲツトオ》に濳み居たるは、一年半ばかり前の事といへば、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が逢ひしは此時なり。幾《いくばく》もなくして彼公子身まかりぬ。姫はこれより一身をミネルワ[#「ミネルワ」に傍線]の神(藝術の神)に捧げまつりて、その始て桂冠を戴きしはナポリ[#「ナポリ」に二重傍線]にての催しなりき。媼はその頃より姫のほとりを離れずといふ。語り畢りて媼は、姫の才あり智ありて、敬神の心いよ/\深きを稱ふること頻りなりき。
 旅館を出でしは祝射《しゆくしや》の眞盛《まさかり》なりき。玄關よりも窓よりも、小銃拳銃などの空射をなせり。こは精進日の終を告ぐるなり。寺々の壁畫を覆《おほ》へる黒布をば、此聲とゝもに截《き》りて落すなり。鬱陶しき時はけふ去りて、蘇生祭のうれしき月はあすよりぞ來るなる。その嬉しさはアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]と媼とを祭見に誘ひ得たるにて、又一層を加へたり。

   蘇生祭

 祭の鐘は鳴りわたれり。僧官《カルヂナアレ》を載せたる彩車は聖《サン》ピエトロ[#「ピエトロ」に傍線]の寺に向ひて奔《はし》りゆく。車の後なる踏板には、式の服着たる僮僕《しもべ》あまた立てり。外國人の車馬、ところの子女の裙屐《くんげき》に、狹き巷の往來はむづかしき程になりぬ。神使の丘の巓《いたゞき》には、法皇の徽章、聖母《マドンナ》の肖像を染めたる旗閃き動けり。ピエトロ[#「ピエトロ」に傍線]の辻には樂人の群あり。道の傍には露肆《ほしみせ》をしつらひて、もろ手さし伸べたる法皇授福の木板畫、念珠などを賣りたり。噴水の銀線は日にかゞやけり。柱弓《せりもち》の下には榻《たふ》あまた置きたるに、家の人も賓客も居ならびたり。群衆は忽ち寺門より漲《みなぎ》り出でたり。供養の儀式聲樂を見聞き、磔柱《たくちゆう》の鐵釘《てつてい》、長鎗などありがたき寶物を拜み得しなるべし。廣き十字街は人の頭の波打ちて、車は相倚りて隙間なき列をなせり。※[#「にんべん+倉」、第4水準2−1−77]父《さうふ》少童には石像の趺《だいいし》に攀《よ》ぢ上れるあり。全羅馬の生活《なりはひ》の脈は今此辻に搏動するかと思はる。既にして法皇の行列寺門を出づ。藍色の衣を纏へる僧六人に舁《か》かせたる、華美なる手輿《てごし》に乘りたるは法皇なり。若僧二人大なる孔雀《くじやく》の羽もて作りたる長柄の翳《えい》を取りて後に隨ひ、香爐搖り動かす童子は前に列びてぞゆく。輿に引き添ひて歩めるは
僧官《カルヂナアレ》達なり。行列の門を出づるや、樂隊は一齊に聲を揚ぐ。輿を大理石階の上に舁き上げて、法皇の姿廊の上に見ゆるを相圖として、廣き辻なる老若の群集は跪《ひざまづ》けり。隊伍をなせる兵士もこれに倣《なら》へり。こゝかしこに立てる人の殘りしは、新教を奉ずる外國人なるべし。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は停めたる車の内に跪きて、その美しき目を法皇の面に注げり。われは見るべからざる法雨のこの群の上に降り灑《そゝ》ぐを覺えき。廊の上より紙二ひら翩《ひるがへ》り落つ。一は罪障消滅の符、一は怨敵調伏の符なり。衆人はその片端を得んとてひしめきあへり。鐘の音再び響き、奏樂又起りぬ。われ等の乘れる車の此辻を離るゝとき、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が馬、側を過ぎたり。馬上の友はアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]と媼とに禮《ゐや》して、我をば顧みざりき。姫は君が友の色の蒼さよ、病めるにあらずやとさゝやきぬ。われはたゞさることはあらざるべしと答へしが、我心は明に友の面色土の如くなりし所以《ゆゑん》を知りたり。而してわれは我決心の期《ご》到れるを覺えき。
 わが姫を慕ふ情は甚だ深し。姫にしてわれを棄てずば、我は一生を此戀に委《ゆだ》ぬとも可なり。われは嘗て我才の戲場に宜《よろし》くして、我|吭《のんど》の喝采を博するに足るを驗《ため》し得たれば、
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