ヤを輓《ひ》かんとてなりき。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は聲を顫《ふるは》せてこれを制せんとしつれど、その聲は萬人のその名を呼べるに打ち消されぬ。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は歌女を車に載せ、おのれは踏板に上りて説き慰めたり。我も轅《ながえ》を握りてかの少年の群と共に喜びぬ。惜むらくは時早く過ぎて、たゞ美しかりし夢の痕を我心の中に留めしのみ。
 歸路に珈琲《コーヒー》店に立寄りしに、幸にベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]に逢ひぬ。羨むべき友なるかな。彼はアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]に近づき、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]ともの語せり。友のいはく。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。奈何《いか》なりしぞ。汝が心は動かずや。若し骨焦がれ髓《ずゐ》燃えずば、汝は男子にあらじ。さきの年我が彼に近づかんとせしとき、汝は實に我を妨げたり。汝は何故にヘブライオス[#「ヘブライオス」に二重傍線]語を學ぶことを辭《いな》みしか。若し辭まずば、かゝる女と並び坐することを得しならん。汝は猶アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の我|猶太《ユダヤ》少女なることを疑ふにや。我にはかく迄似たる女の世にあらんとは信ぜられず。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]はたしかに猶太をとめなり。我にチプリイ[#「チプリイ」に二重傍線]の酒を飮せし少女なり。少女は巣を立ちし「フヨニツクス」鳥の如く、かの穢《けがら》はしき猶太廓を出でつるなり。われ。そは信じ難き事なり。我も昔一たびかの女を見きと覺ゆ。若し其人ならば、猶太教徒にあらずして加特力教徒なること疑なし。汝も熟々《つく/″\》彼姿を見しならん。不幸なる猶太教徒の皆負へるカイン[#「カイン」に傍線](亞當《アダム》の子)が印記《しるし》は、一つとしてその面に呈《あらは》れたるを見ざりき。又その詞さへその聲さへ、猶太の民にあるまじきものなり。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]よ。我心はアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が妙音世界に遊びて、ほと/\歸ることを忘れたり。汝は彼少女に近づきたり。汝は彼少女ともの語せり。彼少女は何をか云ひし。彼少女も我等と同じくこよひの幸《さいはひ》を覺えたりしか。友。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ。汝が感動せるさまこそ珍らしけれ。「ジエスヰタ」の學校にて結びし氷今融くるなるべし。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が何を云ひしと問ふか。彼少女は粗暴なる少年に車を挽《ひ》かれて、且《かつ》は懼《おそ》れ且は喜びたりき。彼少女は面紗《めんさ》を緊《きび》しく引締めて、身をば車の片隅に寄せ居たり。我は途すがらかゝる美しき少女に言ふべきことの限を言ひしかど、彼は車を下るとき我がさし伸べたる手にだに觸れざりき。われ。汝が大膽なることよ。汝は歌女と相識れるにあらずして、よくもさまで馴々しくはもてなしゝよ。こは我が決して敢てせざる所ぞ。友。我もさこそ思へ。汝は世の中を知らず、又女の上を知らねばなり。今日はかの女いまだ我に答へざりしかど、我には猶多少の利益あり。そは少女が我面を認めたることなり。我友はこれより我にさきの詩を誦《ず》せしめて聞き、頗妙なり、羅馬日記《ヂアリオ、ロオマ》に刻するに足ると稱へき。我等二人は杯を擧げてアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が壽《ことほぎ》をなしたり。我等のめぐりなる客も皆歌女の上を語りて口々に之を讚め居たり。
 我がベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]に別れて家に歸りしは、夜ふけて後なりき。床に上りしかど、いも寐られず。われはこよひ見し阿百拉《オペラ》の全曲を繰り返して心頭に畫き出せり。ヂド[#「ヂド」に傍線]が初めて場に上りし時、單吟《アリア》に入りし時、對歌《ヅエツトオ》せし時より、曲終りし時まで、一々肝に銘じて、其間の一節だに忘れざりき。我は手を被中《ひちゆう》より伸べて拍《う》ち鳴らし、聲を放ちてアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]と呼びぬ。次に思ひ出したるは我が心血を濺《そゝ》ぎたる詩なり。起きなほりてこれを寫し、寫し畢《をは》りてこれを讀み、讀みては自ら其妙を稱《たゝ》へき。當時はわれ此詩のやゝ情熱に過ぐるを覺えしのみにて、その名作たることをば疑はざりき。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は必ず我詩を拾ひしならん。今は彼少女家に歸りて半ば衣を脱ぎ、絹の長椅《ソフア》の上に坐し、手もて頤《おとがひ》を支へて、ひとり我詩を讀むならん。
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きみが姿を仰ぎみて、君がみ聲を聞くときは、おほそら高くあま翔《かけ》り、わたつみふかくかづきいり、かぎりある身のかぎりなき、うき世にあそぶこゝちして、うた人なりしいにしへのダヌテ[#「ダヌテ」に傍線]が
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