の上を見しに、こゝには識る人ひとりあり。そは鉛筆取りて、この月明の中なる群を、寫さむとしたる畫工フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]なりき。歸途には畫工と母上と、かの歌うたひし童の上につきて、語り戲れき。その時畫工は、かの童を即興詩人とぞいひける。
フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]の我にいふやう。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]聞け。そなたも即興の詩を作れ。そなたは固より詩人なり。たゞ例の説教を韻語にして歌へ。これを聞きて、我初めて詩人といふことあきらかにさとれり。まことに詩人とは、見るもの、聞くものにつけて、おもしろく歌ふ人にぞありける。げにこは面白き業なり。想ふにあながち難からむとは思はれず、「キタルラ」一つだにあらましかば。わが初の作の料《たね》になりしは、向ひなる枯肉鋪《ひものみせ》なりしこそ可笑《をか》しけれ。此家の貨物《しろもの》の排《なら》べ方は、旅人の目にさへ留まるやうなりければ、早くも我空想を襲ひしなり。月桂《ラウレオ》の枝美しく編みたる間には、おほいなる駝鳥の卵の如く、乾酪の塊懸りたり。「オルガノ」の笛の如く、金紙卷きたる燭は並び立てり。柱のやうに立てたる腸づめの肉の上には、琥珀の如く光を放ちて、「パルミジヤノ」の乾酪据わりたり。夕になれば、燭に火を點ずるほどに、其光は腸づめの肉と「プレシチウツトオ」(らかん)との間に燃ゆる、聖母像前の紅玻璃燈と共に、この幻《まぼろし》の境を照せり。我詩には、店の卓の上なる猫兒《ねこ》、店の女房と價を爭ひたる、若き「カツプチノ」僧さへ、殘ることなく入りぬ。此詩をば、幾度か心の内にて吟じ試みて、さてフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]に歌ひて聞かせしに、フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]めでたがりければ、つひに家の中に廣まり、又街を踰《こ》えて、向ひなるひものやの女房の耳にも入りぬ。女房聞きて、げに珍らしき詩なるかな、ダンテ[#「ダンテ」に傍線]の神曲《ヂヰナ、コメヂア》とはかゝるものか、とぞ稱《たゝ》へける。
これを手始に、物として我詩に入らぬはなきやうになりぬ。我世は夢の世、空想の世となりぬ。寺にありて、僧の歌ふとき、提香爐《ひさげかうろ》を打ち振りても、街にありて、叫ぶ賈人《あきうど》、轟《とゞろ》く車の間に立ちても、聖母の像と靈水盛りたる瓶の下なる、小《ちさ》き臥床《ふしど》の中にありても、た
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