。――これが今日における落語の描いてゐる運命である。そんな時に、寄席復興などといふことは何であらう。そこには一種の反動的な気勢が働いてゐるのは誰にでも指摘できるところであらう。前進を阻まれた気持が前時代の残存物へ向けられるといふこと。これは、その残存物へ安易な郷愁に似たものを感ずるだけで、必ずしも理解できるといふことではない。十分な理解は、その生活環境からいつても、すでに不可能になつてゐるのだ。たとへば、円生はいいね、とか桂文楽(この人は天才である)は巧いとか寄席で囁いてゐるのは、どこまで信用していい声か些か眉唾物である。この人たちは、それよりも、やはりどの席にも加へられはじめた漫才やあくどいえせ江戸つ子振りを売物にする三亀松などの方に、手もなく、もつと悦んで、げらげらと笑ひこけるのだ。
(ちなみに逆説的にいへば、今日の江戸つ子なんてものはみなえせ江戸つ子である。本年八十歳にしてなほ高座に生きる小勝にしてからが、その誹りを免れぬ)
つまり簡単にいへば、あこがれと擬態としての復古趣味があるだけなのだ。
それから、もう一つの寄席復興の原因は、大阪式経営方法の浸潤であらう。吉本、宝塚の進
前へ
次へ
全9ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
武田 麟太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング