の橋の上から、暗い川水を眺め、暫《しばら》くは動けなかつた。欄干には霜が白い。親方の二階に帰つて来、すでに寝てゐるウメ子の横に、空腹の仙吉は眠つた。明日《あす》出て行くことを宣言されるのも知らずに。
 それから市の塵芥《ぢんかい》人夫になつて悪臭を頭に被つた。オイチニの薬売りになつて手風琴をならして歩いた。帰つて来るとウメ子はそれを玩《もてあそ》んだ。ブウブウと鳴るのだ。運河から荷を揚げて倉庫へ運ぶ人夫になつた。重い梱《こり》を肩にしてうつむき加減に搬《はこ》んでゐる仙吉の目の下に大きな手がその日の給料をのせてさし出された。驚いて梱を下し、肩あての布で汗をふきながら見ると、監督の男だ。仕事をやめて出て行けと云ふのである。ウメ子はまばらに草の生えてゐる川べりで、云ひわけをしてゐる父の姿を見てゐた。Sの歓楽場が計画された。仙吉は土方になつた。秋の空の下をトロッコに土をのせて走る。請負人は「なに、前科者でも、主義者でもかまふもんか。そんなこと気にせいで働け、働け。悪いやうにはせん」と云つた。しかし、S歓楽場の建設は中止になり、請負人は使用人に賃銀を払はずに逃亡した。ウメ子は七歳になり、学校へ行かねばならなかつた。
 いつも仙吉には肩書きがついて廻つた。何故か主義者なのである。人民保護の巡査を殴つて前科一犯であつた。すると、次第に彼も兇暴になつて来た。歯には歯を以て酬いよ。待遇されるところを以て返礼しようと彼は考へ出した。少し金がはひると酒をのんだ。のまずにすませないのだ。そして地主と警察をののしつた。貧乏な生活からして金持の悪口を云はずにはをられなかつた。だが、そんな時の、マジメに聞いてゐる相手はいつもウメ子ひとりだ。小さい彼女はダマツて父の前に坐つてゐた。
 小学校に通ひだした、ある秋の日、ウメ子は朝、出るとすぐ帰つて来た。その頃、仙吉はペンキ屋に雇はれてゐた。彼は百姓生れにも似ず筆蹟がよかつた。それが役に立つたのだ。ウメ子の姿を認めると大きな看板文字を書いてゐた仙吉は梯子の上からどなつた。「どうした、もう学校しもたのか」すると、ウメ子は説明した。平常通り学校へ出ると先生に叱られた。袴《はかま》をはいて来なかつたと云ふので。今日は天長節であつた。「先生は不忠者や云ひはつてん」仙吉は梯子の上から下りて来た。「何ぬかす。これから行つてその先生に云うてやる。貧乏人に不忠者も糞もあるものか。袴やええ[#「ええ」に傍点]着物がいるのやつたら買うて寄こせ云うたる」そしてさう云つた。結果は失業であつた。ウメ子は学校から極端にいぢめられた。
 二年生になる頃から、同居してゐるお神さんに教へられて、風船を作ることになつた。赤、紫、黄、青、白、五色の花弁のやうな紙片《かみきれ》をチヤブ台の上にのせた。毎日糊をこしらへてそれを作つた。そして夜になると、お神さんのこしらへたのと一緒に紺の風呂敷に包んで坂を越えて遠い道を歩き、問屋町の風船屋へ持つて行つた。しかし、八つや九つの女の子は風船を作るより、それで遊んでゐるのが普通である。
 それからセルロイド櫛《くし》の飾り附けもやつた。これはアラビヤ糊と云ふ西洋の糊を使つた。小さい金具の飾りを「ピンセット」で挾《はさ》むのだ。この方がダメになると袋の紐附けをやつた。仙吉が失職すると、彼もこのあまり金にならない仕事をしてゐる少女の手伝ひをした。

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 少し手間どつて来た。簡単に書かう。こんな状態のラレツは読者には余り興味あるものではないから。とにかく以上のやうな父親とその生活の感化のもとに彼女は次第に反逆の呂律《ろれつ》をおぼえたのだ。このロレツがしつかりとした言葉になつたのは、彼女が燐寸《マッチ》工場の女工になつてからであつたが。

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 歯ブラシにする牛の骨を柔かくするために、漬けた桶が幾つも並んでゐる。牛骨は黄色くて、臭い。仙吉はそこで働きだした。荒削部だ。白いザラザラの粉《こ》を頭から肩にかぶつた。新聞に労働争議の記事が多くのつた年だつた。職人(仙吉は労働者のことをかう云つた)たちは毎日熱心にこの記事を読んだ。ひる休みにもそのことばかりが話の種になつた。「日給を二十銭あげい云うて、E鋳物工場がストライキやつとる。うちもどうしても二十銭や三十銭はあげて貰はんならんやないか」有志のものは寄りあつて、同じ境遇である他の工場の労働者のストライキがどうして起るのかを研究しはじめた結果、この工場でもストライキにはひることになつた。「表門だけでなく、裏門をこしらへろ。多くの労働者はムダな廻り道をしなければならぬから」と云ふ要求まで出された。最初は怠業から始めた。そして、労働組合友愛会の支部に応援を求めた。「主義者」の仙吉には初めての経験のストライキであつた。彼は勇敢に戦つた。争議は永かつた。幾
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