。依頼人はのんきにも判を忘れてゐた。彼は慌《あわ》てて取りに行つた。仙吉は店じまひをし帰るしたくをした。机の上に白い届書をのせてボンヤリと依頼人の帰つて来るのを待つてゐた。軒に蚊がうなつてゐる。その時、川向うの南の方から小柄な女が背広二人にひきずられるやうにやつて来た。無感覚に眺めてゐた仙吉の眼は突然ギラとして、腰をあげた。不思議な光景であつた。ウメ子がスパイに捕まつて! 彼女は川一つ越して、父の立姿を認めた。そして一つおじぎをし、警察の中に消えた。彼はキヨトンとして了つた。彼の本心は娘は無キズ者にして置きたかつたのだ。だが、虫がついた。虫が――「お頼みします。お頼みします」
その時、帰つて来た依頼人は彼のうしろから判をさし出しながら幾度も繰りかへして云つた。
[#地から1字上げ](一九二九年九月十九日、朝。)
底本:「日本文学全集44 武田麟太郎 島木健作 織田作之助 集」筑摩書房
1970(昭和45)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:ピコリン
校正:小林繁雄
2006年7月3日作成
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