口、田原町の交番の前を西へ折れて少しばかり行くと、廃寺になつたまま、空地として取残された場所がある。数多くの墓石は倒れて土に埋まつてゐ、その間に青い雑草がのぞいてゐるのが、古い卒塔婆《そとば》を利用して作つた垣の隙間から見られる。さらに眼を転じると、この荒れた墓地に向つてひどく傾斜した三階建の家屋に気がつくだらう。――軽気球の繋がれてゐるのは、この三階の物干台で、朝と夕方には、縞銘仙《しまめいせん》の筒つぽの着物を着たここの主人が蒼白《あをじろ》い顔を現して操作を行ふ。即ち、彼は、萎《しぼ》んだ軽気球が水素ガスを吹込まれると満足げに脹《ふく》れあがつて、大きな影を落しながら、ゆるゆると昇つて行くのを眺めたり、大綱を巻いて引くと屋根一ぱいにひつかかりさうになつて下りて来るのを、たぐり寄せたりするのである。
云ふまでもなく、これがこの四十すぎの男の本職ではない。東京空中宣伝会社から、こちらの地域の代理人として幾ばくかの手当は受取り、それも彼の重要な収入になつてゐるのだらうが、表向の商売は別にあるし、その他多くの副業も営んでゐるのである。――
墓地から我々の見た彼の三階建の家は裏側に当つ
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