た――女たちの客を呼び込む声、泥酔した客たちの議論、演説、浪花節《なにはぶし》、からかひと嬌声《けうせい》、酒のこぼれ流れてゐる長い木の食卓、奥の料理場から、何々上り! と知らせる声なぞの雑然とした――安酒場の給料日であるが――夜更けて、四辺は静かになり、料理場の電燈も消されて、仲間のものが打ち揃つて風呂に行き、それから遊びに出かける時、彼だけは一人になつて、夜更けの公園を出て、アパートにもどつて来るのである。給料の三十円はそこで、鉛筆を握つた彼の前に色々と分割される。彼は諸支払の合計を新聞に入つて来た呉服屋大売出しの広告紙の裏に記して見る。残りのうちから、一ヶ月の小遣銭幾ら、貯金幾らと予定を作る。そして、この予定は決して破らうとはしなかつた。だから、何かのことがあつて、早く使ひ果して了つた場合は、残りの日数中、煙草銭もなしで、すごすのが常である。
郵便貯金の通帳の記入高はもう二百円を越えてゐたのである。いつか、身をかためて独立する場合には、これが必要になつて来る、それまでに、せめて五百円にしたいと念願して、どんなことがあつても、これだけは手をつけまいと決めてゐたのである。
皆はこの堅い男を変人だと呼んで特別扱ひをしてゐて、それは彼を益々孤独にし、人づきあひを下手にさせて行くのに役に立つたのであるが――彼とても、気のあつた相手があれば大いに談ずるだけの熱情は持つてゐる。かつて一人の板場《いたば》が病気になつたので、助《すけ》に来た若い男があつたが、お互ひに久保田万太郎の愛読者であることを発見して、二人して大いに彼の芸術を論じたことがある。彼は自分がなかなか饒舌《ぜうぜつ》であることを知つて驚いた程であつた。そして、知らず識らずに昂奮して来、声も上づつて眼がしらにも涙をためて、如何に料理すると云ふことも芸術であるか、これを客に提出するための配合を考へるのも芸術的な悦びを味はさせるものかと力説したのである。そして、相手の遠慮するにも拘らず、ビールをおごらねば気がすまなかつた。彼自身は一滴も口にせず、飲めよとすすめるのであつた。
しかし、自分も時にはそのやうに快く昂奮できるのだと知つた悦びは、翌日冷静になつた時、今月分の小遣銭をすでに費消して了つた後悔のために相殺《さうさい》されてゐた。そして、暫くの間、そのことをクヨクヨと、つまらないことをしたものだと思つてゐた。
その彼がはじめて女を知つたのであるが、それは、同じ店に働いてゐる女中であつた。揃ひのケバケバしい新モスの着物に、赤い前掛をかけた彼女たちは、客の給仕に一日動き廻つてゐる。喧《やかま》しい店のことであるから、料理場にものを通したり、表を通る客に声をかけるに大きな声を張りあげるので、彼女たちの咽喉《のど》はつぶれて、それが店内に濛々としてゐる煙草の煙のために一層荒れて了つてゐる。だから、冗談《じようだん》を云ひかける客には、思ひもつかぬ嗄《しはが》れて太くなつた声で応酬して驚かすのである。――そして、終日銚子を指でつかんだり、料理皿を掌にのせて、日和下駄《ひよりげた》で湿つぽい店の土間を絶間なく、お互ひにぶつかりさうになりながら、忙しく動いてゐる。食事はかはるがはる裏の炊事場に出てする。たすきもかけて立つたまま、棚に菜皿をのつけて、冷い飯を掻き込むのである。大急ぎで済ますと、彼女たちはきまつて小楊枝《こやうじ》で歯をせせり、それを投げ棄てて、便所にはひつて用を足す。それから、再び店へ戻つて客の註文を聞き、高い声で、料理場に叫びかけるのである。――
彼の知つた女はその中に雑《まざ》つて立ち働いてゐた小娘だ。多くの女性に対して彼は好意は持つてゐたが、彼女たちの方では彼を無視してゐるので、いつか、誰それを特別に好くと云ふやうな気持は失ひ、漫然とどの女も自分とは関係のないものとして、同一に眺める習慣がついて了つてゐる。ところが、その小娘が彼に馴々しく近寄つて来たので、彼は少しく狼狽したのである。そして、女に対してずつと持つて来た冷淡な気持は、勝手なことにはすつかり消え失せて、熱心にすべての女を親愛の情を以て見はじめた程であつた。
女は彼に相談したいことがあると云つた。彼は落ちつきを失つて、どんなことを持ちかけられても、すぐに応じて了ふほど、心構へをなくしてゐた。また、何でもしてやりたいと云ふ、甘い気持になつてゐたのも事実である。
彼は女の話を聞いて、をかしい程、すつかり昂奮して了つた。一人の女が自分の前にゐて、それが田舎《ゐなか》の達磨茶屋《だるまぢやや》に売られて行くと云ふ、自分はそれを救はうと思へば、できないこともない、一人の女をむごたらしい運命から防いでやれる、大きなことだ、――なぞと、頭の中で繰りかへした。彼はとつさに、女をさうした逆境に突き落す金がいくらであ
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