云つてゐる。
そして、四号室の女給を嫉妬するわけだが、それは全然意識しないで、彼女の悪口を盛んに云ふのである。女給の女房れんに評判の悪い原因は主としてこの点にある。
――かうした人生の損をしてゐる彼はもう一つ悲劇を背負つてゐる。それは、彼が女給である情婦を心から愛して了つたことである。女を全体として信用できない男が、一人の女を愛するとは!
彼は他の女との交渉中に、烈しく情婦の女給に対して嫉妬を感じることがある。この脆い女と同性である情婦も亦、このやうな姿態を他の男に示すのではないか、と云ふ考へが突然彼を苦しめるのである。自分の好色漢的な行為が却つて、嫉妬をひき起す動因になるなぞは救はれないことだ。
更にこの悲劇が単なる悲劇として終つてゐるのであるが、それはこの顛倒《てんたう》した嫉妬に当るだけの行為が、情婦に少しもないことである。彼が接した数千の女性のうちで最も物堅いのが自分の情婦であつたことは、彼を救はないばかりか、益々疑ひ心の迷路に彼をひきずりこんでゐる。
かつて、暴力団狩のあつた時、彼の仲間も挙げられたのであるが、彼はその男の情婦で四号室の女と同じカフェーに働いてゐるのに電話をかけて呼びよせた。女は少しく自棄気味《やけぎみ》なところもあつて、泥酔して彼の誘惑に辷《すべ》りこんで来た。彼は深夜、この女を見るのに堪へられなくなつて、あづまアパートに帰つて来た。彼は情婦が外泊してゐるか何かの裏切行為があるかと、恐れながら、実は期待してゐたが、女は四号室に平穏に眠つて居り、彼を見ると寝場所を作つてくれるのであつた。――彼は張りつめて来た気持が折れると、自分に腹が立つて来て、急に女に対して怒り出した。そして、手前は、俺がサツへあげられたりなんぞしたら、安心して浮気しやがるだらう、と罵り言葉を繰りかへして撲《なぐ》るのであつた。撲りながら、自分が情けなくなつたのも事実であるが、このやうな彼の倒錯した気持は、この後もずつと続いてゐる。
最近のこと、彼はバクチ場で負けたので、情婦を抵当として、彼女に気を寄せてゐる某に金を借りたことがある。その時は、すぐ回収し得たので何の変化も二人の関係に起らなかつたわけだが、彼は徹夜のバクチから帰ると、また例の癖が出て、手前は某に好意を持つてるんだらう、さうにちがひない、さうでなければ、やつがあんなに手前を抵当に金を貸すはずがないんだと難じはじめ、遂には流血の騒ぎを起しかねない始末であつた。
そして、これらの憂欝を流し込むところは彼には結局女色より他になく、彼の放埒《はうらつ》な日々の行為はやはり続けられてゐるのである。四月になつてから、金沢の博覧会にテキヤの一行と稼ぎに行つてゐるが、毎日のやうに情婦のところへ手紙を送つて来る。それは半ば脅迫じみた文句に充たされてゐて、その地方で浪費されてゐるにちがひない彼の愛慾の顛倒した姿を映し出してゐる。――
そして、このことを十分に知つてゐる四号室の情婦は、焦躁に駆られた表情で、店に出る支度をすると、あれやこれやのレコードを手あたり次第にかけてゐる。彼女の音楽好きは益々|嵩《かう》じて来た様子であるが、云ふまでもなく、彼女自身はその理由をつきとめてはゐないのである。
この呉服物せり売りの桜[#「桜」に傍点]である色男に反して、一人の女のために――それも生れてはじめて知つた女のために背負投を食はされ、すつかり鬱《ふさ》ぎ込んで、女嫌ひになつて了つたコックが二階の便所の横、七号室にゐる。
見るから気の弱さうな顔つきで、眼は近眼鏡のために神経質に瞬《またた》いてゐる。彼の部屋から外出するためには炊事場の前を通らねばならないが、そこに女房れんが塊つてゐる時なぞは、少しうつむき加減に眼を伏せて、人に眺められるのを恐れるやうに、そそくさと出て行く。――暇のある女房たちも奇妙に彼を問題にしない。その白い料理服を着た猫背のうしろ姿をちらと見送る時は、律儀な男だ、もう郵便貯金が随分できたことだらうとか、何て風采のあがらない男だらうとか云つた短い感想が彼女たちの頭をかすめるだけである。独身のくせに、男として少しも話の種にならなかつたのを見ると、所謂《いはゆる》性的魅力と云ふものに欠けてゐるのだらう。
だから、浅草公園の安酒場の司厨場で働いてゐながら、女とのいざこざが少しもなかつたのである。誰も相手にしない萎《しな》びた男――この男のところへ、性《しやう》の悪い女ではあるが、事件屋と一しよに呶鳴《どな》り込んで来ると云ふやうな出来ごとがあつたので、少からず驚いて、アパートの人たちは珍しげに、眼を見はるのであつた。
――三十すぎまで、女を知らずにゐた彼の永い間の平穏な生活。毎月八日は、彼の勤め先である安酒場――お銚子一本通しものつき十銭、鍋物十銭の、実に喧騒を極め
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