やうにさへ見える。野菜の切れはしや、魚の骨や塵芥はそこいらにちらばつてゐるし、風呂なんかは二三人はひると、白い垢や石鹸の糟《かす》が皮膚にくつつく程浮いて小便臭くなつて了ふ。他の部屋に要事があつて入る時も、ノックなしにドアを突然あけるし、鍵のこはれてゐる便所なぞも平気で扉を押し開いて、先に入つてうづくまつてゐるものを狼狽《らうばい》させたりする。
そのうちでも、最もうるさいのは、暇のある女たちだらう。その中心には、吉原遊廓の牛太郎の女房が二人ゐて、彼女たちは昼は亭主がゐるので部屋に閉ぢこもつてゐるが、夜はお互ひの部屋を菓子鉢を提げて行き来し、女たちを集めて晩《おそ》くまで噂ばなしに時をすごすのである。部屋の前には女のスリッパや草履が重なりあつて、彼女たちの高い笑ひ声はどこの部屋にあつても聞くことができる。
最近の彼女たちの話題は、六十すぎの爺さんと婆さんとの恋愛はどんな風に行はれ得るかと云ふことであるらしい。――その婆さんはずつと以前から、三階の一号室に住んでゐるが、そこへ近頃同年配の老人が亭主として入つて来たのである。彼はよほど遠慮深い性質で、婆さんのところへ婿入り[#「婿入り」に傍点]したと云ふことが強く頭にあると見えて、いつも帰つて来る時には「今日は」とか「今晩は」とか云つてから部屋にはひる。すると婆さんはやさしい声で、
「何ですか、自分の家へもどつてくるのに、今晩は、と云ふ人がどこの世界にありますか。唯今、とか、今帰つたよとかおつしやい」と叱つてゐるのが、部屋の外まで洩れてくる。それに対して爺さんは、
「うん」と幸福さうに答へて、女の子のために土産に買つて来た食べ物なり、遊び道具をそこへ置くのである。――七つになつてこの四月から小学校にあがつてゐるその子供は、婆さんの妹の私生児で、養育を託されてゐるのである。
それでも次の日はやつぱり爺さんは、
「今晩は」とそつと部屋に入つて来、婆さんは同じ苦情を繰りかへす。随分永い間、この対話は二人の間に飽かず続けられてゐるのが、女たちの噂ばなしで笑ひの種になつてゐるが、何もをかしがることはないのである。
彼らは義太夫の寄席《よせ》で知合になつた。婆さんはそこで仲売の女として働いてゐるので、爺さんは竹本駒若と云ふ義太夫語りが好きで毎晩聴きに出かけてゐるうち、お互ひに馴染《なじ》みあつて了つた。
そこで、爺さんはそ
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