眠不休の活動のため、少しく神経衰弱の気味もあつた、と親近者は語つてゐる、か。このあとは附加へない方がいいかな。――この原稿を君がベロナールを飲む前に送つて置くぜ、ありがたう、これで、特種料で一ぱいのめるわけだ」
 白足袋の指導者は、それから二通の遺書を書いた。一つは、新聞記者がすでに記事としたやうに争議団にあてたもの、他は郵送した、それは、会社の支配人始め重役にあてたものである。後者に於ても、責任を痛感した結果、死を以て御詫するとなつてゐるのだが、それは争議を永びかし、又、あちらこちらに飛火させたことについての責任である。
 これで、二つの側に、彼の愛嬌ある顔は立つことになる。そこで、今度はベロナールの致死量をよく調べて、たとひ手当がおくれても、大丈夫、死なぬやうに計つて置かねばならない、と彼は考へた。
 それから、彼はあの飲み友だちの新聞記者にだけ特種としてやるのは惜しくなつて来たのである。すべての新聞に大きく載りたいのだ。そこで、まさか死ぬとは云へないが、争議団の最後の記事をとりに来た記者たちに、自分は重大な決意をした、と云つたりした。そして夕刊の記事になるやうに、やはり昼頃がよかろうと考へた。
 彼の前の五号室には、安来節《やすきぶし》の女が弟子二人と住んでゐたが、家賃の払ひが悪いので、赤い眼玉の主人は出て行つてくれるやうに云つた。弟子の二人は仲が悪くて、しよつちゆう口喧嘩をしてゐるのであるが、その日も引越だと云ふのに、お前さんは舞台でツンとしてるから人気がないんですよ、とか、へつ、お前さんのやうに、淫売みたいにニヤニヤできるもんか、私は安来節だけで御客さんの御機嫌を取つてるんだからね、なぞと云ひ争ひながら、道具類を階下《した》へ運んでゐた。――
 そのあとには、越後からやつて来た毒消し売りの少女たちが入ることになり、わざわざ送つて来た炊事道具やら商売道具を運び入れてゐた。彼女たちは全部で十人なので、白足袋の指導者の隣り部屋、九号室にも分宿することになつてゐる。
 この日焼した少女たちは――彼女たちが、ここの風呂に入つたあとは、湯が陽なた臭く、塩つぽくなるのである――大体、去年と同じ顔触れだが三人ばかり馴染みなのがゐない。それらは、すでに嫁入りをしたのであらう。その代り、小学校を出たばかりの少女が新しく加つてゐる。
 彼女たちは、暖かすぎるほどの日なので、襦袢
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