んだと難じはじめ、遂には流血の騒ぎを起しかねない始末であつた。
そして、これらの憂欝を流し込むところは彼には結局女色より他になく、彼の放埒《はうらつ》な日々の行為はやはり続けられてゐるのである。四月になつてから、金沢の博覧会にテキヤの一行と稼ぎに行つてゐるが、毎日のやうに情婦のところへ手紙を送つて来る。それは半ば脅迫じみた文句に充たされてゐて、その地方で浪費されてゐるにちがひない彼の愛慾の顛倒した姿を映し出してゐる。――
そして、このことを十分に知つてゐる四号室の情婦は、焦躁に駆られた表情で、店に出る支度をすると、あれやこれやのレコードを手あたり次第にかけてゐる。彼女の音楽好きは益々|嵩《かう》じて来た様子であるが、云ふまでもなく、彼女自身はその理由をつきとめてはゐないのである。
この呉服物せり売りの桜[#「桜」に傍点]である色男に反して、一人の女のために――それも生れてはじめて知つた女のために背負投を食はされ、すつかり鬱《ふさ》ぎ込んで、女嫌ひになつて了つたコックが二階の便所の横、七号室にゐる。
見るから気の弱さうな顔つきで、眼は近眼鏡のために神経質に瞬《またた》いてゐる。彼の部屋から外出するためには炊事場の前を通らねばならないが、そこに女房れんが塊つてゐる時なぞは、少しうつむき加減に眼を伏せて、人に眺められるのを恐れるやうに、そそくさと出て行く。――暇のある女房たちも奇妙に彼を問題にしない。その白い料理服を着た猫背のうしろ姿をちらと見送る時は、律儀な男だ、もう郵便貯金が随分できたことだらうとか、何て風采のあがらない男だらうとか云つた短い感想が彼女たちの頭をかすめるだけである。独身のくせに、男として少しも話の種にならなかつたのを見ると、所謂《いはゆる》性的魅力と云ふものに欠けてゐるのだらう。
だから、浅草公園の安酒場の司厨場で働いてゐながら、女とのいざこざが少しもなかつたのである。誰も相手にしない萎《しな》びた男――この男のところへ、性《しやう》の悪い女ではあるが、事件屋と一しよに呶鳴《どな》り込んで来ると云ふやうな出来ごとがあつたので、少からず驚いて、アパートの人たちは珍しげに、眼を見はるのであつた。
――三十すぎまで、女を知らずにゐた彼の永い間の平穏な生活。毎月八日は、彼の勤め先である安酒場――お銚子一本通しものつき十銭、鍋物十銭の、実に喧騒を極め
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