日本三文オペラ
武田麟太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)卒塔婆《そとば》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)信用|担保《たんぽ》等の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)調査[#「調査」に傍点]
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白い雲。ぽつかり広告軽気球が二つ三つ空中に浮いてゐる。――東京の高層な石造建築の角度のうちに見られて、これらが陽の工合でキラキラと銀鼠色に光つてゐる有様は、近代的な都市風景だと人は云つてゐる。よろしい。我々はその「天勝大奇術」又は「何々カフェー何日開店」とならべられた四角い赤や青の広告文字をたどつて下りて行かう。歩いてゐる人々には見えないが、その下には一本の綱が垂れさがつてゐて、風に大様に揺れてゐる。これが我々を導いてくれるだらう。すると、我々は思ひがけない――もちろん、広告軽気球がどこから昇つてゐるかなぞと考へて見たりする暇は誰にもないが――それでも、ハイカラな球とは似つかない、汚い雨ざらしの物干台に到着する。
浅草公園の裏口、田原町の交番の前を西へ折れて少しばかり行くと、廃寺になつたまま、空地として取残された場所がある。数多くの墓石は倒れて土に埋まつてゐ、その間に青い雑草がのぞいてゐるのが、古い卒塔婆《そとば》を利用して作つた垣の隙間から見られる。さらに眼を転じると、この荒れた墓地に向つてひどく傾斜した三階建の家屋に気がつくだらう。――軽気球の繋がれてゐるのは、この三階の物干台で、朝と夕方には、縞銘仙《しまめいせん》の筒つぽの着物を着たここの主人が蒼白《あをじろ》い顔を現して操作を行ふ。即ち、彼は、萎《しぼ》んだ軽気球が水素ガスを吹込まれると満足げに脹《ふく》れあがつて、大きな影を落しながら、ゆるゆると昇つて行くのを眺めたり、大綱を巻いて引くと屋根一ぱいにひつかかりさうになつて下りて来るのを、たぐり寄せたりするのである。
云ふまでもなく、これがこの四十すぎの男の本職ではない。東京空中宣伝会社から、こちらの地域の代理人として幾ばくかの手当は受取り、それも彼の重要な収入になつてゐるのだらうが、表向の商売は別にあるし、その他多くの副業も営んでゐるのである。――
墓地から我々の見た彼の三階建の家は裏側に当つ
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