。
「――ああ、やつぱり並の人間とはちがふな、偉い、……その夢を判断したらだすな、将来人の頭に立つ、生れつき智慧才能の備つた徳人と云ふことだすがな、金銀財宝|自《おのずか》ら集るべし、云ふとこや、なア、強い運気や、……え、まちがひおまへん、わてが受合ひます、これが京都はア伏見のお稲荷はんの夢占だす、……ちごてたら、お金はいらん、なアんて云うても、一銭ももろてへんがな」
彼は、苦しさうにしてゐたが、よく弁じ立てた。何か、「高等乞食」の見たといふ夢の吉凶のことらしかつた。
「――さつきから、何だか変だ、変だと思つてたが、お稲荷さんの話を聞きながら、万歳《まんざい》を思ひ出してゐたんだ。」
「高等乞食」は、満足さうに、口を挿んだ。彼も煽《おだ》てられすぎて、些《すこ》してれてゐたのだ。
「――万歳? あ、あれはええものだす、……そやけど、何だつせ、わてが今からちやんと云うとくけど、あんたはん、えらい出世しますで、……失礼ながら、お父はんどこやあらへん」
「――さうかい、そりやあまり当てにならないね、……お稲荷さん、こちらも見てあげてくれ、見料《けんれう》として、もう一本つけさせよう」
老人は、相手があまり信用してゐない風を見せたのに、ちよつと不平さうにしたが、お銚子が来たので、
「――さうやな、……あんた、ゆうべ、けさがた、どないな夢を見やはつた」
と、私の方へ向いた。
「――うん、夢は随分、色々と見るよ」
私は、疲れを覚えて、寧ろ不興気に答へた。
「――そやから、どないな夢や聞いてるんやがな、……あんた、いつも一晩中歯ぎしりをするし、何や知らんが、怖《こは》さうにうなされてるし、……えらい近所迷惑やがな、……もうちよつと気いつけるわけにいかんか」
「――君んとこの狐が不愉快なんだよ」
私も云ひかへした。全くあの臭ひは嘔吐を催すほどたまらなかつた。夜半、ふつと便所に立つて、その檻にぶつかりさうになつたりすると、狐が燐のやうな妖《あや》しい光を発する眼で、じつと疑ひ深さうな敵意をこめて睨みつけてゐる、ぞつと寒気がするのであつた。
「――夢の話をしてるのや、……お狐さまのことを、悪う云ふと、この罰当りめ、承知せんぞ」
老人は、急に威丈高《ゐたけだか》になつた。平常は寧ろ魯鈍に近い面持と関西弁とに隠されてゐるが、かうして居直ると、冷酷で残忍なものが、じいんと表情の底に沈んでゐるのだ。それは、多かれ少かれ、木賃宿などに巣食つてゐる人間の特徴であつた。
「――ははは、喧嘩はよせ、暴力はいかん、……金持喧嘩せずと云つてね、……」
「高等乞食」は、小便から戻つて来て、ひよろ長い身体を我々の間に入れた。
「――いいえ、何も、さう、……」
と、老人は口ごもりつつ、仮面のやうに、硬張《こはば》つた顔を取り外して、
「――こいつが、どだい、日頃から生意気なもんで、……」
「――うむ、まア、いい、もう一ぱい飲んで出かけよう、……」
私は私で、昨夜はたしか印象的な夢を見たがと、記憶を捉へようとしてゐた。夢は、眼覚めた瞬間や、あるひはそれを見てゐる最中は、こいつは面白いと考へてゐても、すぐに忘れて了ふものだ。そして、少し後になつて思ひ出さうとしても、なかなか浮んで来ないし、神経が疲れていらいらするばかりである。
それでも、やつと記憶の綱の端をつかまへることが出来た。
……何でも、私は戦場に来てゐた。突然のやうに、眼の前の大きな邸宅が大砲か爆弾に破壊されて、煉瓦や鉄筋コンクリイトが、ばらばらに頽《くづ》れて落ちて来た。暫くして、すべてが静かにをさまると、廃墟のやうに荒れ果てた邸宅は惨めな残骸をさらしてゐるが、唯豪奢なピアノだけが一台、何の損傷もなく、あたりの殺伐な光景とは不似合な平和なさまで、黒く光つてゐる。と、どこからか、白い蝶がひらりひらりと飛んで来て、そのピアノの周囲を舞つてゐるのだ。まだ微かに煙硝の臭ひが漂ひ流れてゐるのに蝶は実に無関心である。私は、今に蝶が鍵盤の上にとまるだらう、すると、その小さな足の下で鍵盤は動き出して、音楽を奏するにちがひないと、心ひそかに待ちかまへてゐる。……
大体、さうした他愛ないものであつた。場面の状景はニュース映画からの聯想であらうし、蝶はきつと「西部戦線異状なし」の最後のあたりの印象から来てゐるのにちがひない。しかし、ピアノは、どう云ふ意味か理解出来ない。
それから、もう一つ、いつもちやうど睡りに入りかける時に見てゐるやうでもあるし、現に醒めてゐる場合の妄想のやうな気もするのであるが、こんなのがある。……オートバイかトラックかがあちらから、大へんな勢ひで盲目《めくら》滅法に驀進《ばくしん》して来る。私はその道を横切らうとして、それに気がつき、危いと避けようとする。しかも、避けたつもりで、非常に狼狽した危険感から、却つて、よろめいた足はその方へ引き寄せられるやうに、近づいて行くのだ。いけない、いけないと必死に自制しても、もう自分の足もとまらないし、疾走して来るものも、お互ひに引力を感じあつたやうにぐいと方向をこちらに定めて、猛然と飛びかかつて来る。……
「――さア、ここを引き上げよう」
「高等乞食」は、最初は遠慮がちであつたおみくじ屋の老人が、酒が廻つてからは次第に図々《づうづう》しくなり、いつまでもしつこく飲みたがつてゐるのに、しびれを切らして云つた。
「――まア、先生、政治家、……まだ、ええやないか、もうちよつとつきあひなはれ」
狐つかひは、皹《ひび》だらけの両手をあげて、彼を押しとめた。
「――駄目ぢやないか、さうだらしがなくては、……ぢやア、我輩たちは帰るから、君だけ残つてゐ給へ」
さう云はれては、悄然《せうぜん》と頭を垂れて、
「――いや、わても去《い》にます、――ひとりで飲んでても、面白いことあらへん」
立ち上つて、手近にある空の銚子を振つてみてから、さきに店を出るのであつた。
小さな雪になつてゐた。風に舞ひ、地上に落ちるとはかなく消えて行くのだが、老人は元気よく、雪の進軍、氷を踏んでと唄ひはじめた。泪橋《なみだばし》の改正道路をふらふらと横切つていく姿は、往来はげしい自動車や自転車のかげに隠れたり見えたりした。私は危いとは思ふものの、夢とはちがつて、さう大して気にかけずに、
「――ああ、戦争へ行きたい」
と、呟いた。こんな意味のない時を徒費してゐる間には、砲弾の下を銃を担いで進んで行きたかつた。そのことによつて、自分の陥つてゐる莫迦莫迦しく苦しみ甲斐のない泥沼から脱け出たかつた。そして、ひと思ひに死にたかつた。
「――なるほど、どうして、君は応召されないんだらう、不思議だね、我輩なぞの身体は全く役に立たないが、……」
私の眼に雪片が飛び込んだ。私は消えて了つたそれを掴み出さうとするかのやうに、がむしやらに指を突つこむのであつた。
大晦日も寒々と曇つてゐた。私は、「高等乞食」の計ひで、膝小僧を抱いて、ぼんやりと宿の一室に忍耐強く坐つてゐた。
いよいよ、最後の夕方が来た。
「――どうも、調子がいけない」
前々日の深酒や雪風の中を歩いたのが影響したのであらうか、「高等乞食」は、珍しく不精鬚《ぶしやうひげ》を延ばして、床についてゐた。熱もあつたし、力弱い咳もつづけさまにするのだ。
「――医者に来て貰つたらどうか」
と、私は忠告した。
「――莫迦を云ひ給ふな、……もし我輩が病気だと宣告されて、静養でもしなければならなくなつたらどうする、……姉や女房のことは、一体誰がしてくれるんだね」
憤慨したやうに云ふ言葉は、理窟はをかしかつた。しかし、私はわけもなくその気組みに圧される想ひで、黙つて了つた。
「――どうだす、少しは気分がよろしおますか」
おみくじ屋の老人は、そろそろ商売に出るので支度をしてゐたが、さう云つて枕もとで腰を折つた。
「――ああ、大丈夫だよ、……早く行つて、お稼ぎよ」
「高等乞食」は、どんよりした眼で見上げた。
やはり、あすから年が更《あらたま》るとなると、かうした生活の場所でも、常よりも一層ざわざわと慌しく騒がしかつた。
私は、病人の顔をのぞき込んでゐて、やかましい物音のたびに、折角安眠しかけた彼が、はつと眼ざめるのを、自分でもはつとしたりしてゐた。
いつか、時間は経《た》つた。
老人が、酒のにほひをぷんぷんさせながら帰つて来たので、おや、そんな時刻かとびつくりした。彼は、持前の単純な元気を見せて、
「――さア、これで今年もおしまひや、もうすぐ来年だつせ、けふは、夜通しで商売をしようかと思うたけど、割合に景気がよろしかつたんで、……それに、先生の病気もやつぱし心配やしな、早仕舞にして来ました、……」
「高等乞食」のそばにべたりと坐ると、浅草寺はじめあちらこちらの鐘が鳴りはじめた。
「――や、除夜の鐘や、そやそや、……うちの商売もんで、来る年の運勢を占うたげまひよ、それを途々考へて来たんや」
彼は立ち上つて、はい、はい、お狐さまと云ひながら、狐の檻を部屋に運び入れた。おみくじの沢山入れた筒を、その鼻先につきつけて、
「――お狐さま、どうぞ、お願ひ致しまつせ、吉凶を占つて下さりませ」
と、云ふと、狐はその一枚を咬《くは》へ取る仕掛になつてゐた。
「――さあ、病気は早よ快《なほ》るかどうか、お稲荷さんのお告げはあらたかなもんだつせ、さア」
彼は前置をして、仕事にかかつた。
「――お狐さま、どうど、お願ひ致しまつせ、吉凶を占つて下さりませ」
私は、あつ、それはと、とどめかけた。もしも、病気がもつといけなくなるとおみくじでも出たら、神経質になりがちの病人はどう思ふかと心配した。しかし、すでに、毛並の光沢はなく、ざらざらとした感じの小汚い狐は、一片を咬へてゐたのだ。
「――はい、はい、ありがたうござります」
大袈裟にお辞儀をして、老人はその紙を取りあげた。
「――や、ありがたい、悦びなはれ、……何も案じることはないわ、病気まもなく快方に向ふべしとあるわ、末吉やがな」
と、「高等乞食」の眼の前に突出した。
「――さア、それから、こんどは、あんたの番や」
偶然にしろ、不吉な判断が出なくてよかつたと、私は悦んだ。
「――さア、お狐さま、どうど、お願ひ致しまつせ、……さア、早よ、お取り下さりませ、……や、いつもあんたが悪口云ふよつてに、罰当りな話やなア、見なはれ、お狐さまが、あつち向いて、知らん顔してはるわ」
老人の云ふ通りであつた。動物は太い尾の先を檻の金網の外へ出して、冷淡なかまへでじつと坐り込んで了つた。
「――さア、もういつぺん、やつて見まよ、……お狐さま、……」
と、おみくじ屋は再三試みた。やうやく、実にいやいやらしく、狐は無造作に一つの紙片を選び出した。
「――やれやれ、おほきに、さア、これが、あんたの来年の運勢や」
老人は、私の代りに展《ひら》いてくれたが、やつととてつもない叫びをあげた。
「――や、これはどないしたこつちやろ、大凶と出たわ、へえ、……」
と、呆れかへつて、私の顔を打守つてゐたが、
「――あほらしい、こんなことあるはずない、をかしい、ほんまにをかしすぎる」
さもあり得べからざる変事が起つたのに、胆をつぶして了つた形であつた。うしろに両手をついて、
「――うちのおみくじはやな、これでも相当花柳界や株屋はんにもお得意があるさかいに、凶と云ふのは、絶対に入れてないのや、そやのに、……そやのに、何と云ふことや、凶も凶、しかも、大凶やないか」
まだ信じられないのか、彼は幾度もおみくじを見直してゐた。
「――ああ、やつぱり大凶、ちがひない、……入れといた覚えのないもんが出るとは、こら、お稲荷さんの罰やで、……」
昂奮して独りで云ひつづけてゐたおみくじ屋は、遂に説明のつかない不思議を解きかねて、その彼流に不安なもどかしさを私に対する怒りに代へるのであつた。
「――この罰当りめ、この罰当りめ、こら、大凶云ふのは来年だけのことやあらへん、お前の一生が大凶やがな、……うちのおみくじにけちをつけやがつて!」
まだ除
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