て、九時に東京駅についたのです。話はこれからです。自分は家へ帰つてもつまらないと疲労を酒で医《いや》して、十時には自由になるかつ子を迎へて一しよに戻るつもりだつたのです。
何とか茶房の前へ行くと、寒さにめげて人通りの少ない銀座の鋪道に岸田の奴さん、ステッキで靴先を叩きながら誰かを待つてゐるのだ。誰かをぢやなく、かつ子を待つてゐること位は、つんと胸に来た。野郎と思つたが、忍んでうかがふとやはりさうなのだ。では、自分が留守にしてゐた一週間もこの調子だつたんだな、と逆上するほど邪推がこみあげて来た。それでゐて、飛出して行く勇気がない。寧《むし》ろ彼らの眼をはばかるやうにこそこそと逃出したから、自分は不甲斐《ふがひ》ない人間だ。散々そこいらを飲んですつかり更けて家の戸を叩いた。
「――岸田とどこへ行つてゐた」
「――あの人が表で待つてゐて、踊りに行かうとすすめられたんだけど、断つてさつさと帰つて来た」
「――嘘をつけ、この売女《ばいた》」
「――嘘ぢやない、母さんに聞いでごらんなさい」
すつたもんだあつて寝たが、疲れてゐるのに霜に打れて歩いたので、風邪をひいて朝は頭があがらぬほど重かつた。
「――序だから、けふも休んぢまひなさい」
親切さうに彼女は云ふのだが、自分は承知しなかつた。月末に貰ふ給料がそのままになつてゐる。それを受取つてけふはどうしても米を買ふ必要があるし、兄のをも含めての奨学資金の月賦償還が随分たまつてゐるのだが、うるさく集金郵便で来て仕方がないと老母が嘆いてゐたので、それも払つてやる。さう自分は豪語して、シャツをよけいに着込んで出かけた。かつ子は自分が貰ひに行くと云つたが、あれの店へ役所の連中もよく出かけるので、彼女を使ひに出すのは好もしくなかつた。額が汗ばみ、背すぢがぞくぞくとし、自分は無理をしてゐた。兄はああ云ふ風になるし、自分もまだ正規の職業につけないとなると、奨学資金なる投資は失敗だつたと見做《みな》すべきである、それを取立てるなんて、なぞと満員で臭い空気のつまつた省線電車の中で自分はれいによつてぶつぶつ憤慨してゐた。それでゐて、自分はさう云ふものはちやんと支払ひたいのだ。月末の払ひや家賃なぞがたまるのは、自分はたまらなくいやだ。何とも見栄張りたい小心なのである。
役所では、昼飯時になると栗原が現れた。彼はいつもさう云ふ時間をめがけて来る。彼はあきらかに生活に困窮してゐるのだが、余り自分を頼られては、俺だつて君以上に貧乏なんだぞ、おまけに妻をあんな卑しい所で稼がした金で君はのんきに食つてゐるんだぞと云ひたくもなる。そして、反動的に、日頃はつきあはぬ金持の知人に、奢つてやりたくなる。栗原は悄気《しよげ》てゐた。彼は逢ふたびに元気がなく、憔悴《せうすゐ》して行くやうだ。おちつきもなく何かに脅えた臆病な眼色をしてぼそぼそとものを云ふ。彼は日独防共協定や保護監察法案で、自分たち転向被告はますます手も足も出なくなつたと、顔を見るなり訴へはじめた。今は一まとめにして殺されるか、それとも全く改心した証拠に頭を剃つて坊主にならなければならないと泣き言をくどくど云ふ。
「――誰がそんな説を云ひ出したんだ」
「――誰も彼もない、情勢は切迫してゐるんだ、兜町《かぶとちやう》すぢからの話ぢや、一週間以内に戦争がはじまるさうだ、さうなると、もう完全な悪時代だからね、金があれば田舎へすつ込んで鶏でも飼つてこの反動期を切り抜けるんだがなア、いやア、帰る田舎があるだけでもいい、俺には逃げる場所がないのだ」
「――悪時代だけ逃げを張つて、状勢がよくなると、またのこのこ出て来て、景気のいいことを云ふのか、波が高まれば、戻つて来て大に昂揚したところを見せると云ふのか、沈んでゐる時は、どこかに隠れてゐて」
自分は思はず皮肉を云つたが、彼には通じなかつたらしい。時代と云ふものは誰が作るのかと、自分は審《いぶか》しくなつた。彼が消極的な言葉を吐くと、その反対に自分は何か勇しいことが云ひたくてならなかつた。しかし、自分も本当は彼同様なのにちがひないのだ。強迫観念が身近く迫つてゐないだけの相違だらう。在学中から運動に飛こんで、乏しい自分なぞまでシンパにして大に勇猛果敢に活動した闘士がこの栗原とはどうしても思へなかつた。
役所が退《ひ》けると、自分は何とか茶房へ行つて見た。扉のそばで、岸田は来てゐるぞと予感した。案の定、彼はかつ子の情人として坐つてゐた。このどら息子め、自分はビールを一本飲むと立ち上つた。かつ子が、自分が盛んに咳いてゐるのをつらさうに聞いてゐたが、近づいて来て、早く帰つて臥《ね》るといいわ、ほかへ廻つちや駄目よ、と耳打ちした。
「――本当よ、身体だけは大切にしなくちや」
それを彼女が云はなければよかつたのだ。自分は却つて、何を、と
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