する意地も手伝つてゐた。さうは容易に退散してやらんぞ、一度は養子であつた自分に、遺産の分前を寄越《よこ》せ、それが当然だぞと云ひたげな表情もして見せた。しかし、本心の底はまた別だつたのだ。自分は旧藩主の育英会から奨学資金を貸与されてここの高等学校を出たので、何年ぶりかの京都を享楽しようかと思ひ立つたのだ。自分など、今までの生涯《しやうがい》を振返つて楽しかつた記憶はないが、強《し》ひて取り出せばs刳w校時代の印象がさうだ。その頃、自分ははじめて恋愛した。何か知らぬが、唯もうその悦びの極致がかなしく死と結びついてゐるやうなデリケエトな感受性に溺れる年齢であつた。相手の女は嵯峨あたりの僧侶の娘で、東山にある宗教学校に通つてゐた。どちらからとなく、そしてはつきりした理由もなく、死なうと云ふことになり、清水《きよみづ》の山奥で心中を計つたことがある。睡眠薬の量も足りなかつたのに加へて、晩春の雨が抱いて倒れた二人の上に降りそそいで、自分たちは蘇生したのだ。吐瀉《としや》を催して、自分たちは味気ない表情を見交した。しかし、すぐに思はず顔をそむけたのはどう云ふわけからだつたらう。恐らくは、お互ひに生きてゐると云ふ大事実の意識に、薬を飲む前の昂奮をはづかしく省みたせゐではないか。とにかく、それから、逢はなくなつて了つたのです。学校を欺いて、夜昼なしに姿を見なければ承知出来なかつた二人が、ふつつり逢ひたくなくなつたものだから人間の心理は分らない。自分たちはよろけながら、滑りさうになる夜の坂道を帰つた。二人とも一言も云はなかつた。五条坂へ下りて軽く会釈《ゑしやく》すると別れたのだ。自分は数日|臥《ね》ついた。女のことを耳にするのは、何とも云へぬいやな感じで、その耳をふさいで了ひたかつた。ちやうど日を重ると共に近づいた初夏のぎらぎらした光線に、生きてゐる、それでもやつぱり生きてゐる、と胸一ばいに叫んだ時ほどの、生命力に充ちた思ひ出はない。爾来、自分は色んな困難にぶつかり、それが自分を圧倒して了ひさうになる毎に、あの時の声色を呼び起すのにつとめたものだ。もつとも、あの折のやうに、瑞々《みづみづ》しい感覚はどう手さぐりしても掴めなかつたが。自分は何を書きだしたのだらう。こんなことを書いてゐては際限がない。さうだ、きつと、生きてゐる、それでもやつぱり生きてゐるとの叫びを文字にして、自分の鼓動をびしびしと叩きたかつたのだらう。へん、お生憎《あいにく》さまだ、と誰かに云はれてゐるやうな気もする。女は噂によると右下肢がひきつつて、一時|跛行《はかう》してゐたさうだが、それも劇薬の副作用だつたのにちがひない。京都へ再び来て、気障《きざ》つぽく云へば、あちらこちらの愛の古跡が自分の足をとどめさせてゐた。そして、この歳月のあとでは、やはり女の消息が知りたくなつてゐるのだ。変化する心は恐しい。自分は学生時代から友だちづきあひが悪くて、東京で今往来してゐるのは、転向出所後ぶらぶらしてゐる栗原位なもので、御無沙汰してゐた京都で、彼女のことを聞き出し得るやうな知人はゐなかつた。それで嵯峨の彼女の寺まで行つて私立探偵のやうに問合せて廻つた。最初養子を迎へたとのことで、一眼見て行きたいと望んだが、それは妹娘のまちがひであつた。姉の方は、とつくに死んでゐたんですよ。自分はさう知つた次の日に京都を去つてゐる。伯父はお役所が忙しいやろに、ほんまにすまなんだ、と繰返して感謝してゐた。お役所も何もない、臨時雇の自分なぞ、忙しかつたためしはないのだが、黙つてありがたがらせて置いた。人なみに青い事務セエードを頭にかけて机に倚《よ》つてはゐるものの、自分なぞする仕事が与へられず暇で困つてゐたのだ。これはひどく苦痛なので、清掃課長にその旨を云つたことがあるが、彼は、ここぢや人員が過剰なとこへ君たちが割り込んで来たのだ、国家が君たちに食扶持《くひぶち》を支給する表面の名義だけつければいいのだから、別にそんなに忠義立てして仕事する必要はないと答へた。自分は人間を莫迦《ばか》にした言葉だと憤然とした。だが、結局それでもいいのか、以前は乱れたままにしてゐた髪に櫛を入れたりして、定刻に通つてゐるからあまいものだ。そんなことを涙をためてゐる伯父が、お役所お役所と云ふたびに想ひ起して病院を出た。汽車は田園を走る。自分は学校を出た当座、地方の中学の口がいくつかあつた。その時は、一も二もなくはねつけたが、現在のやうな生活状態ならば、いつそ簡素な田舎《ゐなか》ぐらしに隠遁したやうな気持で悠々自適してゐた方がよかつたなぞと考へた。もう、あんな寒村の小学校でもいい、呼んではくれないかなぞと窓をなめるやうに顔を近づけて、冬の雲の下にうづくまる農家や牛や百姓を見るのであつた。もちろん、こんな気持が嘘なのは知つてゐる。さうし
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