装の男に、昨夜の部屋代の一部を負担しようと申出た。すると、彼女は手を振り、口を押へて笑ひながら、
「それはもう、ちやんと、兄さんがお寝《やす》みのうちに、もろときました」と、云つた。ひよつとして、小説家がそのことに気が附かずに帰られては、と彼(女)は恐れたのであらう。
「いくら抜いた」ときけば、「五十銭」と返事した。
 母親は「御飯でも食べて行つとくなはれ」と、お世辞を云つたが、それは嘘であらう。
 雨はあがつた、しかし、陽の光は射さなかつた。――小説家は表へ出ると、昨夜の出来事や、逢つた人々を思ひ出さうとしたのだが、何だか、ぼんやりとしか浮びあがらなかつた。電車の狭いガード下で、そこは誰彼となしに小便すると見え、コンクリートは湿気で壊れ、白い黴《かび》やうのものがひろがつてゐるが、烈しい臭気に彼も亦、そのことに気がついて、小口貸金手軽に御用立てます、と云ふ広告を読みながら、排泄するのであつた。そこを抜けると無料宿泊所があり、そのあたりには、午前中からもう夜の宿の心配をしなければならぬ浮浪者たちが、いつでも事務員が出て来て受附けるならば、すぐ列を作つてならべるやうに支度をして――蹲《う
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