財をかけては済まぬ、自分のところへ来い、と云ふのである。「ホース」と云ふは、「ハウス」か「ホーム」の訛《なま》りであるらしかつた。――
「すぐ、そこだす、第二愛知屋だす」
そこで、小説家は偶然なことから、彼の懐古心を満足させ得たことを思ひ起し、今更のやうに、感慨深く部屋を見廻し、玩味し、剥げた壁や畳に、もはやかうした宿らしく人間の汁液が浸込み饐《す》えた臭ひがこもつてゐるのや、天井の薄い板もところどころ外れて垂れさがつてゐるのを、認めるのであつた。そして、再びその部屋を、楽書を見ることはなからう、と思つた。
れいの女装の男は階下へ、彼のために傘と下駄とを持つて行き、破れた障子の中へ首を突込むと、中の者に何やら云ひ、それから大きな声で、「おほきに」と、挨拶して彼を促して、外へ出た。
表通の方へは行かず「こつちから」と、路地の奥を突抜けると、木柵があつて南海鉄道のレールが走つてゐ、ずつと遠く天王寺公園に当つて、エッフェル塔のイルミネションが、暗い空に光を投げてゐる。――その黒い木柵の間を、彼(女)は着物も長襦袢もたくしあげて跨《また》ぎ、危うおまつせ、と彼のために傘を持つてやつて、案
前へ
次へ
全40ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
武田 麟太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング