ふいに、また彼を引張るものが――女であつたが、煮込屋の前まで連れて行くのであつた。――
 見ると、それは大きな肩掛をし、片一方の眼のいやに小さな、萎《しな》びた女であつた。小声で――「兄さん、電車に乗りはりますやろ」と云ふのである。小説家は、その質問の真意を捉へかね、横で煮込屋の釜の下の火にあたつてゐる宿なしたちがこちらを見てゐるのを意識しながら――「そりや、乗らんこともない」と云ふ風な返事をした。と、その言葉の終らぬうちに、荒れた皮膚の女は、短い指の中に握つてゐた電車の切符を、彼に押しつけて、六銭で買うとくなはれ、と云ふのであつた。
 小説家はどうしたものかと思つたが、取りあへず、あすこの古道具屋に売つては如何かと云ふ旨を彼女に伝へると、「あいつら、無茶苦茶に値切りよりますがな」と云つて、きかなかつた。そこで、彼は仕方なく十銭白銅を出すと、彼女は少しもぢもぢとして困つた様子であつたが、相手が面倒臭くなつて、全部呉れはせぬか、と期待してゐるやうでもあつた。――だが邪魔者が入つた――「両替したろか、赤銭やつたら、なんぼでもあるわ、重うてならん」と云ふ声が――れいの煮込鍋の下に身体を暖め、時々いい気持にそこへ坐つたまま居眠してゐた、髪の毛の薄い少年であつたが、腹巻の中から、新聞紙に包んだ銅貨を出すのである。もちろん、彼は重いほど持合はせてゐるわけでもなかつた。
 肩掛の女は六銭握ると、おほきにと礼を云ひ、考へて、少し離れた、屑のすし屋で買物をし、小説家の方をちらと見てから、小走にガードのあちらへ、駈去るのであつた。少年も亦、それを見送り、小説家の手に残つた、よれよれの市電切符を指して、
「ガゼビリめ、パス一枚でヤチギリやがつたな、――ほんまに不景気なはなしや」と、説明するのであつた。
「ふむ」と、小説家は咽喉をつまらせて、今の女の一生を思ひ、それから、少年を――その顔は、腫れあがつて赤味を帯び、眼も細く、破れた着物の下には襯衣《シヤツ》があるが身体中の瘡蓋《かさぶた》のつぶれから出る血や膿《うみ》にところどころ堅く皮膚にくつついてゐた、銅銭の紙包と一しよにボール紙を持つてゐて、――それには、この子は両親も身寄もなく、しかも遺伝の病気で困つてゐるからどうかめぐんでやつてほしい、と云ふ意味の文句が、同県人より、お客さま(!)と書き副へて記されてあつたのを見ると、彼は繁華な通
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