事なんだからと、駄々児のやうに呶鳴《どな》りたくなつた。
「さう、新吉さんのためなら、私はどうなつてもいいのね」
「そんな、――お前」
「知らないわよ、――私のお給金の前借りばかりしやがつて」
そこまで云ふと、おしげは感情がこみあげて、咽喉がつまつたが、辛うじて泣かなかつた。
「――義理でも、お父つあんぢやないか、そんなひどい口をきくもんぢやないよ」
おはまはまだ三十七であつた、――おしげの実父と死別れてから、色んな男とついたり離れたりして来た、篠原新吉と云ふ公園で何をしてゐるか誰も知らない男と一しよになつたのは、去年の夏すぎで、彼女よりも年下であつた、別に形相《ぎやうさう》は恐しくはないが、油断のならない眼を冷く据ゑて、グリグリに青く頭を刈りつめ、ずんぐりと脊は低くかつた、全体にうす気味が悪いと云ふのが当つてゐた。
「何がお父つあんなのさ、義理なんかありやしない、あんな働きのないやつ」
おはまも、土手の蹴とばし屋の女中をしてゐた、母親と娘と二人で男を養つてゐるわけであつた。
それから、彼女はおしげにくどくどと訴へはじめた、――福ずしの旦那に、新吉さんがかたく約束したのだ、旦那はおしげに気があつて、ならば「たむら」をよさせて、自分の店に引取りたがつてゐた、と云ふのは、おはまの表面的な穏かな云ひ方にすぎず、子供の頃から仲たがひしてゐる豊太郎と、おつねを争つて負けた後、未だ独身の彼は、露骨におしげを妾にと望んでゐたのだ。出入りしてゐる新吉がそれを安受け合ひして来たのであらうとは、おしげにも想像できた、――そして今日は東京劇場へ連れて行くと云ふので、彼はきつと御伴《おとも》させますと引き受け、前売切符を二枚用意してあると云ふ。
「後生だから、何とかしとくれよ――さうでないと、新吉さんの顔はまるつぶれぢやないか」
おはまは娘を掻き口説いた。
「勝手ぢやないの、そんなの私の知つたことぢやないわ」
取りつく島もなかつた、忙しいんだから、帰つてよ、とおしげはづけづけと云つた。
「考へてみなさいよ、――福ずしさんと遊びに行くからと云つて、うちの旦那に暇が貰へると思つて?」
雨は一層きつくなつた、その中を母親は帰つて行つたが彼女が困れば困るほどいい気味だと、おしげは痛快だつた、そのくせ、すぐあとから、また新吉に罵《ののし》られてゐるのではないかと心配になつて来た、いつも二言目には、うちの母《か》あちやんが、と云ふのが口癖で、心の底からおはまを愛してゐる彼女は、さうなると、いよいよ新吉に憎悪の念を集めた、どうして母あちやんみたいないい女があんな下らない男に惚れてるんだらう、別れちまへばいいのにと、彼女は母親を独り占めにしたくなつた、せめて、もう少しお父つあんと呼ぶだけの価値のある人間だつたら、どれだけ肩身が広いだらう、定休日にもすすんで、象潟町《きさかたまち》の足袋屋の二階――おはまが間借りをしてゐるところへ戻つて、延び延びと骨休みもし、あまつたれも出来ようと情なかつた、どうかして、新吉と別れさせる方法がないものかと考へてゐた。
土曜日の十五日で、店は転手古舞《てんてこまひ》の忙しさであつた、おまけにおつねが留守のため、手が足りなく、ぼうつとして九時すぎ料理場で立つたままおそい夕飯を食べてゐると、帳場にゐた豊太郎が眼顔で、早く二階へ昇つて了へと教へてゐるのだ、え、と聞きかへして、はつとした、店の方から、新吉の乱暴な言葉が伝つて来た。
「いけない、隠れて」と、旦那が云ふので、食ひさしの茶碗を棚へ置き、足音を忍ばせて、階段を昇つた、上は彼女たちの寝室になつてゐた。
響いて来る新吉の怒り声に、ああ、いやだ、いやだ、とおしげは小娘らしい感傷で、私ほど不幸せな女はないと悩むのであつた。頭が痛いほど口惜しくつて、いつそ、下りて行き、お前は一体何だ、何をうるさく因縁をつけに来やがつたんだと呶鳴りかへしてやらうかと立つたり坐つたりしてゐた、しかし、それもここの家の迷惑を考へては、よほどのことにと畳を蹴立てて走り出しさうになるのをひかへねばならなかつた。
ざアざアと屋根を叩く雨の音が彼女を落ちつかせた、窓を開くと、さすが冷気が流れてゐて、微かに煙るアーク燈の光りのあちらに五重の塔がくすんだ影を陰欝に浮き立たせてゐた。
朝からの気疲れがおしげの身体を包んだ、新吉なんか怖かないやと思つてゐるうちに、そこに凭《もた》れてほんの暫くまどろんだ。
いい加減の頃合を見計つて、おしげは階下の様子をうかがつた、新吉はもうゐないらしいので、そつと下りた、旦那をはじめ、雇人たちに、すみませんを繰りかへして謝るのが辛かつた、おきよやおとしが、しげちやんの母あちやんも大へんな御亭主を持つてるのね、と皮肉を浴びせた。
女たちは店をしまつて、お湯へ行つた、おしげだけ
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