心は、「たむら」を自分の店の浅草支店と改称させたかつたが、さすがそこまでは云ひ出せず、「たむら」の売れた名が客を持つてゐるなら仕方ないが、もしさうでなければ、何とか縁起のいい、ぱつとした屋号をつけるのが得だね、とだけ云つた、借りた金は、店の景気の立ち直るにつれ、それみな、俺の云ふ通りまちがひねえだらう、と恩にきせられながら、少しづつ返却してゐた、それがまたおきよの癪に触つた、くれてやつたやうな大きな顔しやがつて、今にきつと利息を取り立てに来るんだらうよとにくまれ口をきいた、まアさう云ふなよ、お前の嫁入り仕度は品川でしてくれるつてんだからと兄の豊太郎がとりなし顔で云つた、いやですよ、誰があんな田舎ばくちみたいなやつに、と口応《くちごた》へするおきよは、家の中で、おつねにぶつかつても、ぷいと横向いて、言葉一つかはさなかつた、兄嫁にしても小姑《こじうと》根性つて何ていやだらうと、眉をしかめ、お互に欠くべからざる要事があれば、豊太郎を通じて弁じるやうな仲になつてゐた。――
「何も私に隠すことなんかないぢやないか、え、しげちやん」
「――隠しやしないわ」と、彼女はジャムのついた唇を拭うた。
「なら、白状しておしまひ、兄さんはよほどあんたが好きらしいのね」
「――どうして、そんなこと云ふの」
鼻を上向きに、おきよは笑つて、
「およしよ、白つぱくれるのは、――まだ、何か食べるでせう、私はケエキを貰ふわ、あんたは」
トンカツを三つね、とガラス戸をやかましく云はせて、出前の註文であつた。
「私、もう結構」
「遠慮しなくてもいいわ、――ドオナツをおあがり」
「――そいぢや、牛乳をいただくわ、だけど、悪いわねえ」
さう云つて、おしげはくすと笑つた、彼女の客で、牛乳屋の若主人がゐて、独りでは恥しいと、いつも大ぜいの友人を連れて来ては、みんなにひやかされながら、結局はたかられて高いものについてゐるのを思ひ出したのだ。
「何さ、いけすかない、思ひ出し笑ひなんかして」
「いいえ、――おつぱい屋のこと」
「ああ」と、ちよつと冷い顔をして聞き流し、すぐにもとに戻つて、
「こなひだ、私、見つけちやつたんだよ」
擽《くすぐ》るやうな眼つきに、おしげは耐へられなかつた。
「――ね、裏口でさ、兄さんもなかなか大胆ね、昼間つから、あんたを抱いたりしてさ」
あたりを憚《はばか》つて小声ではあつたが、十七の小娘はゐたたまらぬ感じで、うつむいてゐた、――見られたのかと思ふと、すべての非が自分にあるかのやうに、彼女らしくなく、おどおどした。
「――怒つてるんぢやないのよ、ほめたげる、と云つてはをかしいけど、まア、私の云ふ気持も解るだらう、義姉《ねえ》さんは少し増長してるから、うんと痛めつけてやりたいのよ、――ねえ」と、煽動しにかかつた。
「お砂糖入れるの、――早くお飲みよ、場合によつちや、兄さんを取りかへしたつていいんだから、しげちやん、その覚悟があつて」
○
半月と少し前、おしげはあやまちを犯して了つたのだ、――生々しい記憶でありながら、まるで他人事のやうに茫然とした感じであつた、事実であることだけがはつきりしてゐて、その時の自分の性根や行動がいくら考へ直しても掴めなかつた、とんでもないことをしたとの後悔も自分の身体でなくなつたやうな生理的な不快さが残つてゐる間だけで、それが日を経て失くなると、何とも思はなくなつてゐた、その後悔も翌日になつてやつと胸に湧いて来たので、豊太郎の懐に飛び込んで行つたのは、誰かに復讐《ふくしう》するやうな、酸つぱくて哀しい感情に押されてであつた。
誰かに――と云ふことだけはおしげによく解つてゐた、母親と、義理の父と云ふのさへいやな、母親の近頃の連れあひ新吉とに対する意地からにちがひなかつた。
朝から秋雨が降つてゐた、奥で働いてゐる女中のおふぢに云はれて、裏口へ出て見ると、母親のおはまが傘のしづくを切りながら、立つてゐるのだ、またかとその要件は察したが、
「なアに」と、わざと不機嫌に云つた。
「けふ、お休みを貰へないかい」
「駄目、十五日ぢやないの、――それにゆうべからお神さんが品川へ帰つてるんだもの」
「困つたねえ、どうしたもんだらう」
大袈裟《おおげさ》に沈み込んで見せるのを、
「先月、病気して休んだんだから、当分ぬけられないわ、――用事はそれつきり?」
いかにも忙し気に、店を拭いてゐた雑巾を弄《もてあそ》んだ。
「――そこを何とか若旦那にお頼み出来ないだらうか」
「うるさいのねえ」
「――私はかまはないんだけど、新吉さんに恥をかかせるわけにはいかないからね」
おしげはむつとした、――自分の亭主を新吉さんなんてさん[#「さん」に傍点]づけにしてゐる、さう思ふと、どうせ、さうよ、母ちやんは私なんかより亭主の方が大
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