心は、「たむら」を自分の店の浅草支店と改称させたかつたが、さすがそこまでは云ひ出せず、「たむら」の売れた名が客を持つてゐるなら仕方ないが、もしさうでなければ、何とか縁起のいい、ぱつとした屋号をつけるのが得だね、とだけ云つた、借りた金は、店の景気の立ち直るにつれ、それみな、俺の云ふ通りまちがひねえだらう、と恩にきせられながら、少しづつ返却してゐた、それがまたおきよの癪に触つた、くれてやつたやうな大きな顔しやがつて、今にきつと利息を取り立てに来るんだらうよとにくまれ口をきいた、まアさう云ふなよ、お前の嫁入り仕度は品川でしてくれるつてんだからと兄の豊太郎がとりなし顔で云つた、いやですよ、誰があんな田舎ばくちみたいなやつに、と口応《くちごた》へするおきよは、家の中で、おつねにぶつかつても、ぷいと横向いて、言葉一つかはさなかつた、兄嫁にしても小姑《こじうと》根性つて何ていやだらうと、眉をしかめ、お互に欠くべからざる要事があれば、豊太郎を通じて弁じるやうな仲になつてゐた。――
「何も私に隠すことなんかないぢやないか、え、しげちやん」
「――隠しやしないわ」と、彼女はジャムのついた唇を拭うた。
「なら、白状しておしまひ、兄さんはよほどあんたが好きらしいのね」
「――どうして、そんなこと云ふの」
鼻を上向きに、おきよは笑つて、
「およしよ、白つぱくれるのは、――まだ、何か食べるでせう、私はケエキを貰ふわ、あんたは」
トンカツを三つね、とガラス戸をやかましく云はせて、出前の註文であつた。
「私、もう結構」
「遠慮しなくてもいいわ、――ドオナツをおあがり」
「――そいぢや、牛乳をいただくわ、だけど、悪いわねえ」
さう云つて、おしげはくすと笑つた、彼女の客で、牛乳屋の若主人がゐて、独りでは恥しいと、いつも大ぜいの友人を連れて来ては、みんなにひやかされながら、結局はたかられて高いものについてゐるのを思ひ出したのだ。
「何さ、いけすかない、思ひ出し笑ひなんかして」
「いいえ、――おつぱい屋のこと」
「ああ」と、ちよつと冷い顔をして聞き流し、すぐにもとに戻つて、
「こなひだ、私、見つけちやつたんだよ」
擽《くすぐ》るやうな眼つきに、おしげは耐へられなかつた。
「――ね、裏口でさ、兄さんもなかなか大胆ね、昼間つから、あんたを抱いたりしてさ」
あたりを憚《はばか》つて小声ではあつたが、十
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