に最も適してゐるかのやうに細々として、笛の音に似てゐた。
 その声を耳にしてゐると兵野も、泥酔にちかい状態であつたせいか、思はず釣りこまれて沁々としてしまひさうであつた。
「いつたい人間が、――これほど分別ざかりの一個の男の胸中が、斯んなにも間が抜けてゐて、斯んなに頼りなくて、たゞ、もう、無性に、斯んなに悲しくつていゝものかしら――そんなことで何うなる……」
 娘は、横を向いて欠呻を噛みころした。――堀田の声が、厭に冴え冴えとひゞくと気づいて兵野があたりを見廻すと、いつの間にか其処にゐた客達の姿はひとりも見あたらなかつた。
「お君ちやん――お酌だ、飲んで、飲んで、僕は、この寂しさの奈落に真ツさかさまに落ち込むのが本望さ。」
「あら、とう/\、泣き出してしまつたわ、厭な堀田さんね。」
「泣く堀田は嫌ひか、お君ちやん――」
 真実、堀田の両眼からは珠のやうな涙がさんさんと滾れ落ちた。――兵野が、堀田の有様を眺めたとこによると、決して彼は、そんなことを云つて娘の甘心を誘はうとしてゐるのではなくて、心からなる人生の寂莫を誰にともなく訴へて、ひたすら単なる断腸の思ひに切々と咽び入つてゐるのであつた。
「ねえ、君――」
 不図堀田は、兵野の方へ盃をとつた腕を伸して、
「まあ、この憐れな男の盃を一杯享けて呉れ給へ、君はさつきから僕の方を如何にも同情に充ちたらしい眼差しで眺めてゐるが、憐れんでゐて呉れるのぢやなからうか――」
 と取り縋つた。
「憐れむなんてこともないけれど――俺は、君に好意を感じてゐたところだ。」
 兵野が斯う云つて盃を享けとると、突如、堀田は※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]のやうな奇声を挙げて、
「有りがとう、君は俺の友達だ!」
 と叫ぶや、いきなり兵野を抱き寄せた。
「苦しいよ、堀田君――まあ、離して呉れ。」
「おゝ、俺の名を呼んで呉れたか、天野君。」
 と堀田は狂喜のあまり、思はず兵野を、出まかせの姓で叫んだが、兵野は別段訂正の必要も覚えなかつたので、そのまま、
「君は此処の常連か?」
 などゝ訊ねた。
 堀田は、途方もなく誇張した言葉で、さめざめと涙を滾しながら沁々と人生の哀感について、兵野に訴へた後に、
「今まで俺の斯んな心持を真顔で聞いて呉れる者は、お君ちやんより他はなかつたが、謀らずも今夜、君といふ同情者に出遇つて斯んな嬉しい事はない。今後、是非とも無二の親友としてつき合つて呉れ。俺は、何だか君が、兄哥《あにき》のやうな気がして来た。」
 さう云つて、しつかりと執つた兵野の手を決して離さうとしなかつた。
「……ぢや、これからもう一切寂しい/\なんていふ譫言《うわごと》を云ふのは止めにして――」
 笛のやうな声で、あんなことばかりを繰り返されると、丘野も妙になりさうになつたので、
「元気好く飲もうぢやないか!」
 と云つた。
「賛成だ――斯んな春らしい好い晩を、めそ/\してはゐられない。出よう――」
 彼は勢ひ好く叫んだ。
 あの、お君つて子は、とても感心な娘で、親爺とたつた二人であの店を経営してゐるんだが、近頃その親爺が病気になつて――。
 外に出ると堀田は、居酒屋の内幕ばなしをはぢめたが、お君のことに移ると、吐息をのんで、
「僕は、他に野心もなにもないのだが、あの家の為には出来るだけのことを仕度いと思つてゐるのさ。貧乏といふよりも僕は、あの父子《おやこ》の世にも稀な純情に打たれてゐるんだ。世が世なら僕は盗棒を働いてゞも……」
 堀田は兵野の肩に凭りかゝつて、夜更けの町を歩きながら、そんな話をした。
「盗棒と云へばね……」
 と彼はつゞけた。――「僕は一度で好いから、何うかして監獄といふところへ入つて見たいと思ふんだがね。何処に居たつて何うせ君、この人生は寂しくてやりきれないんなら、いつそ監獄に囚はれたら、寧ろどつしりとした落莫の底に落着きを見出せて、屹度得るところがあらうと思ふんだ。僕は、そこで一篇の詩をつくりたい……」
「君は詩をつくつてゐるの?」
「詩人なんだ、僕は――」
 堀田は亢奮の声をあげて、
「牢屋へ行きたい、牢屋へ行きたい――」
 などゝ叫んだ。
 兵野は吃驚りして、慌てゝ堀田の口腔《くち》を塞いだ。
 もう町は一帯に寝沈まつて、霧が深く閉してゐた。
「もう何処まで行つたつて、起きてゐさうな店なんてなさゝうぢやないか、別れるとしようか。」
 兵野は、少々白々しくなつて、ためらひだすと、
「なアに、これから僕の住家《うち》まで行つて、明方まで飲むんだ。」
 堀田は、しつかりと伴れの腕をおさへたまゝ車《タクシー》を呼び止めた。
 兵野は、車に乗るといち時に酔が発して、うとうとゝしたので、車が何処を何う走つて、何処で降りたかもうろ覚えであつたが、醒めて見ると、小机を前にして盃を執つてゐる堀田
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