もなく、
「この辺りだらうと思ふが――」
といふ可細い堀田の呟き声で、兵野は醒された。
「さうだ――そのポストを左に曲つて……」
「相当の道程《みちのり》だね、これぢや君、酔つて帰ると車から降りて仲々骨だらう――」
堀田の音声は、何といふこともなしに浮ついてゐるようであつた。
「斯んなに酔つて、帰ることは珍らしい。でも、僕は酔ふと歌をうたふ癖があつてね、この辺まで来ると大概家の者が聞きつけて、迎へに来るよ。」
「もう遅過ぎる時刻だから、歌は勘弁して呉れ給へよ。」
堀田は臆病らしく、兵野の耳もとにさゝやくのであつた。
「気の毒だね。斯んなところまで送らせてしまつて――家の者を呼び出さう。」
「待つた/\!」
堀田は慌てゝ兵野の口腔をおさへた。「この先、僕は何れほど君に厄介になるかも解りはしない……」
「何云つてやがんだい――心配するない。」
兵野はわけもなく叫んだ。
すると、堀田は、いきなり兵野を抱へ直して、
「有りがたう――忘れないで呉れ!」
などゝ云つたが、兵野には好く聞きとれぬらしかつた。
「その家だ――有りが度う。」
と兵野も別れを惜むやうに云つた。
「その突きあたりの二階屋だ。」
「えツ!」
と、その時、堀田はあからさまに愕然として、思はず兵野をとり落しさうになつたが、
「危いツ――失敬/\!」
直ぐに、驚きをとり直して、兵野を抱いたまゝ大股で門口に進むと、軒灯にすかして凝つと、表札を見あげてゐた。
「やつぱり、左うだ!」
と彼は唸つた。――そして、眼を真赤にして、
「これは、貴方の叔父さんの表札ですか?」
と、開き直つて兵野に尋ねた。
何も気づかない酔ひ痴れてゐる兵野は、いとも洒々落々たる音声をあげて、「さうとも/\たしかに僕の叔父の表札さ。僕は二年前から此処に住んでゐるよ。今時分帰る時には玄関からでなしに、庭を回つて椽側から入ることになつてゐるんだから、向方をまはつて――まあ、君、折角だから上つて行つて呉れたまへ、女房にも会つて呉れ給へ、お礼を云はせたいんだ――ねえ、堀田君――」
などゝ云ひながら、からみつかうとすると、堀田は例の笛に似た泣くやうな奇声で、
「あゝ、やつぱり、さうだつたか……」
と唸ると一処に、
「さよなら――」
と、もう一度堅く兵野の手を握つたかと思ふと、パツと、それを思ひきり好く振り離して、後ろも見ずに逃げ出した。
「堀田君、堀田君!」
兵野は、吃驚りして叫んだが、見る間に堀田は生垣づたひに走り出してしまつた。曲り角で、ちよつと振り向いたかとおもふと、堀田は、ワツと泣き出したに違ひない格構で、顔を両手で覆ふやいなや、姿は、蝙蝠のやうに消え去つた。
追ひかけようと試みたが兵野の脚は、自由にならず、そのまゝ彼は地べたに転げてしまつた。――兵野には、何故そんなに慌てゝ堀田が逃げ出して行つたか、腑に落ちなかつた。
――翌晩彼は、居酒屋へ赴いて堀田の来るのを待つたが、十二時が過ぎ、一時になつても、遂々堀田は姿を見せなかつた。店の片隅に、獅子頭のついたステツキが立てかけてあるのを娘が指差して、
「あれは、堀田さんがうちのお父さんに下すつたんですよ。お父さんが病院へ通ふ時竹の杖を突いて行くのを堀田さんが御覧になつて、俺が好いステツキを持つてゐるから、そいつをやらうつて……」
などゝ話したが、兵野は、落ついて聞く予猶もなく、
「堀田に会ひたい、堀田に会ひたい。」
と繰り返しながら、泣き出しさうに顔を歪めた。そして、
「お君ちやん、僕も淋しいよ。」
と兵野は、笛に似た声で呟いた。
底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 オール讀物号 第二巻第四号」文藝春秋社
1932(昭和7)年4月1日発行
初出:「文藝春秋 オール讀物号 第二巻第四号」文藝春秋社
1932(昭和7)年4月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
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