製で小さな百足凧を製作して子供を悦ばせてやらうと気づいたのである。然し実際の構造に就いては母も私以上の知識は持つてゐなかつた。
「それは好いだらう。」
「僕、如何しても拵《こさ》えたい、直ぐにでも。」と私は、一言毎に熱度を増した。子供のため、そんなことも何時の間にか忘れてしまつた。その晩私は珍らしいことだ、朗らかな夢を見たのは――。
 朝になつて勢ひ好く飛び起ると私は、一目散に別の知人を自転車で訪れた。Aは云つた。「そんな凧なんて俺は見たこともない。」Bも云つた。「へえ! 珍らしいね、そんなのなら俺も一つ欲しいから君先きに作つて呉れ。」Cは云つた。「あげる場所があるまい。今では。」
「いや俺のは小さいんだ、胴の太さは直径五寸位ひのもので好いんだ。」と私は、落胆《がつかり》しながら性急に答へた。私は、あれと同じ説明を何処ででも返つて求められたのだ。
「これはどうしても自分だけの怪し気な記憶をたどるより他は道がなさゝうだ。だが僕は一層拵らえずには居られなくなつた。あゝ。」
「私も少しは手伝つても好い。」と母は、私の沈み方や熱情が案外真剣なのに驚いた。
 私は物差、分廻し、定規、コンパス、その他の道具が散乱してゐる中で頭に氷を縛りつけて物思ひに沈んでゐた。
「あの竹を丸くするのは仲々六ヶ敷いだらう、あれは傘屋《からかさや》か提灯屋に頼まなければ無理だらう。」
「いゝや、それ位ひのものは一切自分で拵えてしまふんだが。此方に居る間にこつこつと夜なべをしながらでも拵へあげてしまひたいと思つて……」
「それは――。で、何が?」
「胴片のつなぎ方、脚のつけ方、絵の具の塗り具合、そして尻尾のつけ方までは大体見当がついたし、寸法も定つたんだが――」と云ひかけて私は、自分の頭の氷を忘れてがつくりと首垂れた。「頭の組立と顔つきのところが如何しても思ひ出せない。眼が風車仕掛けのことは解つてゐる、鬚のあることも知つてゐる。兎も角部分的には解つてゐるのだが、それが如何な形ちの顔に如何な風についてゐるんだか?」
「さう云はれて見ると私にも?」と母もハタと行き詰つて凝つと外を眺めた。
「あゝ、焦れつたい!」
「やつぱし胴と同じマルに、眼をつけたり……」
「そんな馬鹿なことはない……?」
「何でも口からは長い舌が垂れてゐた。」
「それも僕は忘れてゐた。あゝさうだ。舌があつた、たしかだ。」
「釣りの懸け方は?」
 私はドキリとした。「さうだ、それも解らない。」とうなつたが、わけもなく向ツ腹が立つて来て「そんなことは後で考へればどうにかなる、大事な頭のことや眼口の配置が解らないうちに、さう傍から先のことを口出しされては一層此方の頭が混乱してしまふばかりだ。もう、好いです、一人で順々にゆつくりと考へれば屹度思ひつく……」と迷惑さうに口を尖らせて横を向いた。
 私は、この章の冒頭に設計書の写しだけをその儘書き誌すつもりだつたが、今もつて如何程思案しても頭部の構造と眼口の配置が出来ない、代りに思ひ出の凧に就いてのみあの様に散漫に書き誌すより他はなくなつてゐるのだ。だから私は、あの熱病から稍醒めて斯様な筆を持つ余裕位ひは生じてゐる現在でも、私の思ひの大半は、洞ろのまゝに執念深く、彼処にのみ走つてゐるのだ。今も私は空殻のやうになつて呆然とあの愚かな夢を追ひながら、せめてもあの間の始末書を書かうと思ひ立つたのである。さうでもして救はれることを祈らないと私は、更に更にあの続きを演じ兼ねない状態である。あの間、といふのは、私が、永い前から没頭し続けてゐる或る自伝風の創作を続けることゝ、不健康な飲酒生活を改革する目的で佳き暑中休暇をする学生の心にかへつて、海辺の郷里に帰省してゐた、つひ此間の夏の話である。

     二

 日が経つに伴れて私は、可怪しな憂鬱病患者になつてしまつた。日頃は市井的の小感情のみに動かされて夢に似たものさへもあまり抱いたことのない私が、たゞ変にぐつたりとしてしまつた。私は、単に煙草を喫すばかりの人形になつてゐた。眼に映る凡ての実在の物の輪廓が滲み、感情が消え、性格が滅び、五慾を失ひ、その癖奇妙に心が慌しく、ゼンマイ仕掛けの如くに疲労を知らずに――と、左様な形容を与へても何らの誇張も覚えない私は、可笑しな憂鬱病患者になつてしまつた。意味は浅く、理由は簡明なのだ。私は、どうしても完成出来さうもない百足凧が思ひ切れないのだ。日夜々々、私の脳裏を間断なく去来するものは、あの美しく奇怪な凧が天空を悠々と游《およ》ぎ廻つてゐる姿のみだつた。そして彼は、私に限りない憧憬を強ひ、空々しい同情を与へた。「来年の春まで考へて御覧よ、何《な》あにちつとも六ヶ敷いものぢやないさ、アメリカ製のビツクリ箱から飛び出す怪物に似た顔で好いんだよ、でなかつたらポンチ絵の虎が笑つたやうな顔だ。」
「さうだ。――俺は、実物の虫であるお前は蛇の次に嫌ひなんだが、紙製のお前にはこのやうに親しめるんだ。だがどうしても頭部の竹の組立と眼口の配置と釣りの懸け具合が思ひ出せないんだ、見えない、此処からは!」
「しつかりして、思ひ出してくれ、来年の春遊ばうぜ――面白いぞう!」
「俺はもうそんな呑気な余裕はない、一日も早くお前を拵えたいばかりで俺は、斯んなに窶れてぼんやりしてゐるんだよ。」と私は、掻きくどきながら、遥かの空を羨望した。
 また彼は、沁々と私の愚鈍さを軽蔑して執拗な嘲笑を浴せるのであつた。「お前などはどんなに首をひねつたつて俺は、これよりお前に近づきはしないよ。手のとゞきもしない望みなんぞを起さずに、センチメンタルの涙でも滾しながら口でもあいて眺めてゐるが好いんだ、追憶だけは許してやるから!」
「お母さん、あなたが余外なことを教へて呉れたので私は、あいつに軽蔑されまいといふ反抗心を持つたり、疑つたり……つまらない感情の浪費を強いられます。私は、あいつに舌があつたことはあの時まで忘れてゐたのです、幸ひだつたんだ。一つ余外な思案が増した、あの舌は如何いふ風につけるのか? 何といふ憎態な舌だらう、ぺら/\と風に翻つてゐやがる。――おい/\、然し俺だつて拵へる段には、小さいながらもせめて青野の凧に似るほどの安全なものにする、無論舌だつて取りつけるんだ、だからもう少し低くなつて顔つきの構造を見せてくれ、眼玉と鬚と口の格構と舌の動き具合と、……」
「不器用なくせに!」
「いゝや、これ程俺は一生懸命なんだ、ほんの一寸とで好いから眼近く現れて呉れ、命を縮めても見とゞけずには居ない。」
「馬鹿の一念か! 俺はかくれもしない。この通り悠々とお前の眼の上で泳いでゐるぢやないか。」
「だ、だ、だからよう。」
「出来上つたらお目にかゝらう。話はいづれその時にしようよ。」
「ツンボ! 空とぼけるないツ!」
「フン、泣き出しさうな顔をしてやあがる、此方からは好く見えらあ!」
「意地悪るの鬼!」
「お前は体の具合でも悪いんぢやないの、何だかこの四五日急に元気がなくなつたやうだ。凧の話は如何したの、もうあきらめたと見えるね、お前は子供の時から物に飽き性だつた。」
「この頃お酒だつてそんなに飲まないのに! 好いあんばいにゲー/\が治つたと思つたら、――お酒がもうそれ程身にしみたのかしら、好く飲まないから反つて気分が悪いといふほど?」
 あまり私が打ち沈んで物をも言はず、稀に盃をなめては天井にばかり陰気な凝視を放つてゐるので母や妻は、私の帰りたての頃の元気好さに引き比べて、夫々案じてゐた。私は決して他の前では凧のことは口にしなくなつてゐた。思ひが内にたかぶるばかりだつたのだ。
「いつもは少々気のふさいでゐる時などは傍から口など出すと酷い疳癪を起すのに、今度は違ふ、口を利くのも退儀さうです、この頃何と云はれても怒つたこともありません。」と妻は、私の眼の前で物品の批評でもするやうにそんなことを母に告げたり、手をかけて私をゆすつたりした。「何時もならこんな真似でもしたら大変だ! ねえ、どうなさつたんですか? 頭の具合でも悪いの?」
「吾家には代々頭の病気の血統があるから気をつけないと……」と母は努めて嗤つた。
「頭の話は止してお呉れ。」私は、こわれものでも扱ふやうに静かに首を振つた。
「つまんないなあ、あたし折角泳ぎが出来るやうになつたのにまた海へも行かれなくなつてしまつた。危い海なんだからあなたが一処に行つて呉れないと……」
「一度思ひ立つたことなんだから、ぼつ/\と手工に取りかゝつたら如何なの、凧の? 頭だけは後まはしにして置いても好いぢやないか、そのうちに私が昔の知つた人を訊ねて見ようぢやないか。」
「そんなに珍らしい凧なら、好い加減でも関はないから早く拵えて見せて下さいよ、あしも好きよ、凧あげは。」
 妻も無造作に調子づいて傍からせきたてるのであつたが、寧ろ私はそれらの呑気さ加減が悲しい程羨ましかつた。
「いゝや、俺はもうそんなことを考へてゐるんぢやないよ。別段気分が悪いといふわけでもないんだ……他のことを……」と私は、故意に打ち消さうとしたが、声の調子はひとりでに可細く芝居沁みて消え込み、にわかに胸が一杯になる切なさに襲はれた。
「おや/\、もう泣き出すのかね。何といふ意久地のない男なんだらう、あの面を見ろ、泣くんならせめて顔を覆へよ。涙なんて見せられては此方は、笑ひたくなる位ひのものだ。」
「馬鹿野郎!」と私は、口惜し紛れに叫んで、ポンチ絵の虎が笑つた顔と仮りに定めた凧を睨みあげた。「泣いてゐるんぢやないや、これが俺のあたり前の顔なんだい。」
「頃合ひの風が吹いて来た、馬鹿にからかつてゐないで、もう少しのし[#「のし」に傍点]てやらう。釣りの懸け具合が至極うまいので、この分ではうつら/\と居眠りでも出来さうだ。春とはいひながら、とても快いお天気だなあ!」
「あゝ、あんなに小さくなつてしまつた! ボーフラのやうに小さくなつてしまつた。あいつが、たつた今あんな憎いことを云つて俺をからかつた奴かと思ふと、何だかおかし[#「おかし」に傍点]な気がする。おーい、おーい。」
 だが、もう何の応へもなかつた。私は、飽くまでも未練深く眼をかすめてボーフラの姿を仰いでゐた。
「駄目かなあ!」と私は嘆息を洩した。
「気分だつて紛れるよ、お拵えよ。」
「そんなに六ヶ敷いの? 頭と顔が?」と妻は、其処で私の気分をそれに惑《ま》ぎ込まうと思つたらしく膝を乗り出して私の顔をのぞき込んだ。
「うむ。」と私は、やつと凧のことに心を移したやうにして点頭いた。
「おばあさんが居たら解るんだけれどもね。いゝえ、私にも朧ろ気には解つてゐるんだけれど?」と母も一層の乗気を示して仔細らしく首をひねつた。
「駄目かなあ!」と私は、更に心底からの嘆息を洩した。私の脳裏にはボーフラの影だけがはつきりと印されてゐた。
「記憶! それに数学的の才能がない者には、記憶の見当が違ふので一切役に立たない。」
 母は自身が批難でもされたかのやうに思つて、顔をあかくした。「思ふと、私も上つてゐる小さい凧の姿しか思ひ出せない。」
「だん/\小さくなる。」と私は呟いた。……毛氈の上の私達が、重箱を開いて弁当をつかつてゐると、突然盆地の一隅からワーツといふおだやかならぬ波のやうな鬨の声が捲き起つた。見ると、あげ[#「あげ」に傍点]手の一団がまさしく蜘蛛の子を散らしたやうにパツと飛び散つた。
「喧嘩かな?」
「毎年一度は屹度だ!」
「早く仲裁が入れば[#「入れば」は底本では「入れは」]好いが?」
 私と祖母と母は、同時に斯う云つて箸を置いた。口々に彼等は何事かを叫んでゐるのだが、遠いので意味は解らなかつた。それにしても喧嘩にしては何だか妙だな? と私は思つた。と、見ると彼等は一勢にスタートを切つて此方に駈け出した。
 空には、何の変りもないボーフラがうつら/\と居眠りをしてゐる。
「お母さん、どうしたのでせう?」と母は祖母を振り返つて訊ねた。
「喧嘩かも知れない、立ちのこうかな?」
 間もなく一団の駈け手は、砂を巻いて、滑走する巨大な磁石になつて次々にあたりの群勢を吸ひ込み、最初
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