どには何の未練も後悔もなく、時に、遺書なりと認める必要に出會ふ折もあれば、勇敢なる杉野兵曹長のそれと同樣に簡單明瞭なる一札で充分であると思はれるばかりであつた。
それはさうと、このわたしの窓の下はそんな繁華な大通りの側面でありながら、急に暗くなつて、夜更けまで主に脚どり嚴めしい兵隊靴の音が絶えなかつたが、その脚どりの中に毎晩爽やかな横笛《ピツコロ》の練習をしながら戻つて來る者があり、餘程の熱心を籠めて吹奏するらしいその節廻しがいつもわたしの夢をほろ/\と誘ふおもしろさなので、一體何んな人なのか知らと憧れて、そつと見降ろすのであつたが、一向姿は定かではなかつた。深い泉水の底に眺める鯉のやうに淡く、吹奏者の姿は忽ち闇の彼方に吸はれて行つた。
最初にわたしがその吹奏の歌を聞きはじめたのは、未だあたりは冬の霧が深く、海の上から放たれる探照燈の翼が崖の側面にあたると、凍てついた氷山に對する稻妻のやうに見えた頃であつた。
ピツコロと云つても專門的なものではなくて、それは何うも昔わたし達が幼い折に弄んだ銀笛の類ひであるらしい響きであつた。御存知ない方は合奏用のピツコロの音を御想像下されば
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