悔した。
「明るくつて眠れない、灯りを消せ。」
 結婚して始めて彼が怒気を含んだ音声を発したので、妻は吃驚《びつくり》して(どうして夫がそんなに怒つたのか解らなかつたが。)おとなしく立ちあがつて灯りを消した。
 その様子が可愛かつたので、彼は妻の手を握つた。妻は又泣いた。
 その時彼は不意と、今迄全然忘れてゐた照子のことを思ひ出した。「嘘ぢやない。」と妻に弁解しながら、嘘でないその言葉から過去を寂しく思つてゐた矢先に、ふと照子の顔を思ひ出したら、
「やつぱり俺は、妻に嘘をついてゐるのかな。」といふ気がして、軽い会心の笑が浮んだ。同時に堪らない寂しさが湧きあがつた。
「何故俺はそれ(?)以上の愛を持つことが出来ないのだらう。」斯んなことを思ふと、彼は滅入りさうな気になつて、
「やつぱり眠られない。もう一度灯りを点けておくれ。」と云ふには云つたが、妻と一緒に、暗い部屋の中で、その儘身動きもしたくなかつたので、堅く妻の手をおさへた儘灯りを点けさせなかつた。(完)

 純吉は、読み終ると同時に思はず亀の子のやうに首を縮めた。(チエツ! 厭な奴だなア。)彼は、ニキビのある青年が東京の下宿の一室で「ランプの明滅」を書いてゐる光景を回想した。
「スケートへ行かう。」
 苦い顔をして縁側へ現れた純吉を見あげて宮部が云つた。
「厭だ/\。」
「小説でも書くのか?」木村が意地悪気にからかつた。
「木村はイヽ加減の了見で他人の気持を推し計らうとするから失敬だぞ。」
 純吉は、憤つとしてそんなことを云つたが、それは相手に喋舌つたのか? 自分で自分を冷笑したかたちなのか、解らなかつた。
 純吉は、自分の気持の何処にも力の無かつたやうな愚しさに打たれた。そして、わけもなく無しや苦しやして来て、
「君たちも、さつさと湯に入つて来ないか!」と怒つたやうな調子で云つた。
「皆なで一緒に入らう/\、狭くつたつて関《かま》ふものか。」宮部がさう云つて、先に湯殿へ駆け出すと、木村も加藤も、すつぽりと其処に着物を脱ぎ棄てゝ、おどけた格構で続いて行つた。
 純吉は、折角晴れ/″\した朝の気持を忽ち奪はれた気がして、照子のことを思ひ出したり、また落第のことを思つたりして――酷く気が滅入り始めた。
(寝てしまはうかな!)彼は、そんなことを思ひながら、庭の青葉に降り灑《そゝ》いでゐる光りを、物憂気に眺めてゐた。
「お爺さん/\、熱くつて仕様がねえよ、水を出して呉れ、水を出してお呉れよう――」
 湯殿では、そんな騒がしい声がしてゐた。間もなくガタン、ガタンと退屈気にタンクをあをる音が、のどかな朝の色に溶け込むやうに響いた。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 家に居る間は誰もが無遠慮に百合子を称揚したが、此処に来ると皆な堅くなつてゐた。男同志時々眼と眼とを見合せて、一寸微笑むだけで、各々取り済した円陣をつくつて「メリーゴーラウンド」を保つた。スケートの車の音が緩なリズムとなつて、大波のやうに部屋中に充ち溢れた。回転しながら落着いた態度で、ポケツトから手布《はんけち》を出して汗を拭く者もあれば、威勢よく上着を脱いで傍らの椅子に投げ棄てる者もあつた。百合子は薄いスカートをひら/\と翻しながら、「ゴー・ラウンド」の一隊に加つてゐた。――純吉は片隅の椅子に凭れて、燦然たる光景を羨し気に眺めてゐた。……あんなに美しい百合子は、一体どんな男と恋をするだらう! 彼はそんなことを考へて、体の竦む想ひをした。そして、一同がこれ程烏頂天になつて快活に跳ね廻つてゐる時に、そんなに卑しく因循な空想に耽つてゐる自身を顧て、風穴に吸ひ込まれて行くやうな不快な想ひに襲はれた。
「岡村さんどうなすつたの?」百合子はさう云ひながら円陣を滑り出て純吉の前に現れた。
「……」ウツと純吉の喉は詰つた。
「妾もう逆行が出来るわよ、演つて見ませうか?」
「転ぶといけませんよ。」そんなつもりではなかつたのだが彼は、つまらないといふ風な云ひ方をしてしまつた。そして横を向いた。
「あなたは出来て?」
「出来ますよ。」と彼は、思はず何の思慮もなく呟いだ。普通の滑り方だつて満足に出来ない彼だつた。
「ぢや教へてよ。」
 此奴俺をからかつてゐやがるんだな――純吉はさう思つた。純吉の滑り方は一種特別だつた。両脚を交互にスツスツと踏み出す当り前の滑り方が彼には如何しても出来なかつた。彼が試みると、左脚が棒の様に延びた儘で右脚は分廻しのやうに一方に反れて、それがたゞガクガクと跛足のやうに思はせ振りな動き方をするばかりだつた。球投げをする時ガマ口のやうにパクリと二つの手の平を開けておどおどと球の来るのを待ち構へてゐるやうな捕手が上達の見込のないと同じく、斯ういふ要領のスケートマンは如何程練習しても無駄だといふ話だつた。純吉がホールに現れると皆な、悪意のない軽蔑の眼で彼を見物したがるのだ。――止せば好いのに、彼は木村達に誘はれるとふら/\と伴いて来るのだつた。
「教へてもいゝけれど……」彼は涙が胸に溢れるやうな切なさを感じた。(もう明日からは何と云つても来るものか、畜生奴、馬鹿にしてゐやアがる! 手前達のやうな野蛮な人種とは違ふんだ。俺は瞑想的な詩人なんだ。斯んな馬鹿/\しい遊戯に心を奪はれるやうな安ツぽい男ぢやないんだ。)彼は唇を噛んでそんなことを胸のうちで呟いだ。
「そんな負け惜みを云はないで、もう少し熱心に練習しなさいよ。……ほら御覧なさい、あんなに不器用な加藤さんだつて、あんなに巧くなつたぢやありませんか。」
 百合子が指差した方を純吉が眺めると、加藤は両腕を翼のやうに延して、軽々と回転してゐた。選手《チヤンピオン》の木村は、左手を軽く腰のあたりに当てがつて口笛を吹きながら逆行してゐた。宮部は左右の脚を交互に入れ違ふ行き方で、純吉の前を通つた時「どうだ、巧いだらう、一処に伴いて来いよ。」と叫んだ。
「木村さん!」と百合子は叫んだ。「妾の手を執つて頂戴よ。」
 百合子は木村の後を追ひかけて行つた。純吉は、わけもなくほツとして、星が一杯輝いてゐる窓外の空を見あげた。
(斯んな時に、沁々とした孤独に浸らう、そして印象的な詩を作つてやらう。)
 純吉は、そんなことを思つて静かに眼を閉ぢたが、何の「詩的な霊感」も浮ばなかつた。驢馬の耳のやうに鈍重な神経ばかりが、執拗に嫉妬深く百合子の姿を追ひかけたり、光りのない未来の空漠が不安な雲となつて五体を覆ひ包んだりするばかりだつた。
 スケートの音が遠雷のやうに響いたり、また純吉の眼近く崇大なオーケストラのやうに渦巻いてゐた。純吉は、影のない夢見心地でぼんやりと眼を視開いてゐるばかりだつた。
「大さう六ヶ敷い顔をしてゐるな。」
 宮部は、純吉を浮きたゝせてゞもやるらしい心意《こころ》で、そんなことを口走つて彼の前をかすめ通つた。
「やれよ/\。」続けて加藤の声もした。
「俺ばかり百合子さんを教へてゐるんぢやテレるよ。」木村は、純吉の耳にそつと囁いで滑つて行つた。
「少し勢ひをつけると、片方の脚だけで一週出来さうだわ。」
 百合子は歌劇女優のやうに、わざとらしく脚を挙げて走つてゐた。
(俺だつて出来ないこともあるまい。)皆なの注目が反れた時、純吉はそんなに呟きながらそつと立ち上つた。だが、足の重いスケートを感ずると「とても駄目だ。」といふ気がした。――(自転車を習ふ時のやうな身構へで好さゝうだが、ハンドルが無いには閉口だ。)――(静かに/\。)――(脚ばかりに気を取られないで。)――(まつすぐに眼を向けて、傍見せずに。)――(重い脚を、軽く意識せよ。)――(それにしても斯んな重いものをつけて、あんなに巧みに踊り回れる彼奴等は尊敬に価するぞ!)――(何ツ! くそツ! 俺も男だ。)――(死んだつて関ふものか、滅茶苦茶に飛び出してやらうか!)――(それで失敗《しくじ》るんだよ、落着け/\!)――(厭にまた、この車は回りが好すぎるやうだ。)――(石に噛りついても上達して見せるぞ。たかゞスケート位ひ!)――(叱ツ、他念なく/\、脚の踏み所、力の入れ具合、細かく呼吸して……)
 純吉は、それらの言葉でわれと自らを励ませながら、注意深く壁に添うて一歩一歩静かに、靴を挙げては降ろした。危険に気付くと、直ぐに窓枠に噛りついた。――窓の外には月の光が明方のやうに明るく輝いてゐた。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

 純吉は、昼頃眼を醒した。雨脚が他人のものゝやうに堅苦しく、痛かつた。――(やつぱり俺は独りに限る。もう今日からは、何と云つても出かけないぞ。……あの苦しみは地獄の有様だ!)
 彼は、飯を食べる気力もなく、ぼんやりと窓に腰を掛けた。――(それにしても癪に触ることだなア、あんなこと位ひが出来ないで斯んなに気が滅入つたり、恥を感じたり――。よしツ、ひとつ彼等に内緒で一週間ばかり単独で練習してやらうかな。そして眼醒しい上達をして、再び現れて彼奴等の度胆を抜いてやるのも痛快だな。)
 さうも思つたが、あの醜いいざり[#「いざり」に傍点]のやうな滑り方をする姿を想像すると、彼は忽ち慄然として堪らない冷汗を覚えた。
(止せ/\。俺には俺の天分があるんだ。同じく渚に転がつてゐる小石であらうとも、俺には角があるんだ、矢鱈に転々して堪るものか。)――口惜し紛れにそんなことも考へたが少しも力が入らなかつた。
(……多くの怠惰学生は、その怠惰さ加減に比例して、愉快なる大胆さを備へてゐる、そして朗らかな自信を把持してゐる、若少し誇張して云ふならば、彼等は快活な夢と、微妙な涙と、花やかに巧みなる感傷と、繊細な豪胆さとを夫々融和して胸の底に秘蔵してゐる。若しも彼等の一人が、その中何れか一つの性質を忘れて生れたならば、彼の存在は何と惨めで、如何に醜く、何と彼は不幸な青年であらうか!)
「あゝツ!」
 純吉は、思はず太い溜息を衝くと同時に、そんな愚にもつかない感想を振り棄てようとして、乱雑に首を振りまはした。
 窓辺の柘榴の蕾は、大方開かうとしてゐた。緑の深い細い葉と、紅色の蕾の球とが、窓を覆ふやうに拡がつて、それらの隙間から覗かれる晴れた海と空の蒼い平板に鏤められたやうに浮きあがつて見えた。まどろみかけた純吉の鈍い眼に、そんな風に映つたのだ。
 純吉は、窓枠に腰を降した儘、柘榴の花を沁々と眺めたり、小さく動かない船の見ゆる沖の方をぼんやりと視詰めたりした。――だが彼の心は、未だたつた今の愚考から離れてゐなかつた。
(あゝ、俺は何といふ不幸な怠惰学生なんだらう――。怠惰にかけては、誰にも敗《ひけ》はとらなかつた、が自分は怠惰以外の、彼等の徳とする凡ての心を持ち合さなかつた。白《ブランク》ならば未だしも救はれる、にも関はらず自分の胸の底には彼等のそれと反対の凡てを鬱積させてゐる――小胆の癖に大胆を装うてゐる、自信は毛程も持ち合せない、役に立たないカラ元気ばかりを煽りたてゝゐるんだ――卑しい妄想と、愚かな感傷と、安価な利己心と、陰鬱な夢と、その癖いけ[#「いけ」に傍点]図々しい愚昧な策略とを持つてゐるんだ。……あゝツ!)
 そんな他合もない心を動かせてゐるうちに彼は、ふつと気持が白けたかと思ふと、わけもなくにやりとセヽラ笑つた。若しも其処に相手がゐたならば、その人はおそらく「馬鹿にするなツ」と憤慨するに相違ない。純吉は近頃独りの時そんな風な薄気味悪い笑ひを浮べるのが、何時の間にか自分でも気付いてゐない習慣になつてゐた。
(……彼女は、ボストンの郊外に、母親と二人で小さな果物店《フルーツパーラー》を経営してゐるさうだ。E――といふ混血児の小娘だ、混血児は軽蔑されるかな、そんな馬鹿な話はあるまいな、だが頓興にも程があるぢやないか、そのE――が、E――が、俺の妹だなんて、気味が悪いな、気味が悪いな!)
 突然に純吉は、そんなことを思ひ出した。(やつぱりあの[#「あの」に傍点]ことは気にかゝつてゐると見えるな、だがあんな不気味なことは思ふまい/\。)
 E――のことを或る偶然の機会で知つて以来、純吉は自家《うち》に起伏《
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