た瞬間には、安心して照子の美しさを想つた。――そのうちに彼は、指先の速度をそれに伴れて心の変る暇のない程だんだんに速めて行つた。非常に素速く反転させた。彼の心も同じやうに速く反転して、そして無心になつた。彼は、たゞ面白がつてランプのシンを弄んだ。
(しまつた!)と彼が気附いた時、シンは油壺の中へ落ちてゐた。
 暗闇だけが残つた。困つたことか、困らぬことか? 彼は心にそんな区別をつけることを忘れた。そして深い溜息をした。――虚無、安心、悦び、涙――そんなやうなものが白い絹に包まれたまゝ胸の中へ一時に流れ込んで来る感じがした。
 彼は、落第した。
 照子はその翌年結婚した。彼は、照子の結婚が少しも自分の心に反応のない気がした。
「やつぱり恋といふ程のものぢやなかつたんだ。ほんの気紛れだつたんだ。」彼は、斯う自分の心に呟かせたが、少しギゴチない気がした。で彼は、自分に「悲しき勇士」といふ冠を与へて、楯と剣を持せて丘の上に立たせて眺めてみた。
 また試験の夜が回《めぐ》つて来た。一昨年と同じ部屋で、彼は机に向つてゐた。照子は居なかつたが、やはり彼の心は本に集注しなかつた。「さうだ、俺は試験そのものが嫌ひなんだ。照子なんてには係りはないんだ。」――「だから俺は試験の時節になると屹度、ものを書きたくなつたり、恋を空想したりするんだ。」
 彼は、そんなことを呟いて、何か意味あり気にひとりで点頭いた。
 彼は、自分の結婚を空想した。妻を得た或る日の自分とその見知らぬ妻を描いて、二人に会話を与へた。彼はペンを取つてノートブツクに次のやうなことを書いた。
 ――その年に彼も結婚した。
「あなたは妾と結婚する前に恋をしたことがあるでせう。」妻はよく斯んなことを云つて彼を困らせた。
「ない/\。ほんたうに、決して――」彼は、心から妻を愛してゐたから、無気になつて答へるばかりだつた。
「嘘だ/\。」と云つて妻は泣いた。そんな事も聞いた。あんな事も聞いた。と妻は古い手紙などを持ち出して、又泣いた。
 彼が或る女と家を逃げ出したこと、雛妓《おしやく》に惚れて親爺から勘当されたこと、などを妻は知つてゐた。
 が実際、彼はこの妻程愛した者は一人もなかつたから、「嘘ぢやない」と懸命になつて云へば云ふ程、妻は反対に焦れた。さうなると彼は癪に障つて、妻以上に深く愛した恋人を持たなかつた過去を寂しく思ひ、後
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