まつた。そして無理に笑ひ声をたてゝ見た。すると、正しく鳴き声ばかりが、彼のそれと似て鴉の如くクワツ/\と筒抜けながら、顔の筋肉は少しもゆるがなかつた。
「いゝえ、わたしは、あなたのやうに――さつぱりと振られて、見得も得意も、やけつぱちもないといふやうなお面を、いや、様子を何時にも見たことはないんです。」
「ちえツ馬鹿めんのモデルにされちや堪らないぞ?」
 と私は云ひ棄てゝ立ちあがつてしまつた。
「何もそんなに肚を立てないだつて好いぢやありませんか――」
 彼は私の姿を弱々しく見あげながら、悲しさうにつぶやくのであつた。いつか別の客に向つて、あれほどの圧倒的な威喝を浴せた男であるからには、いつかは短気を起して私の上にも目ざましい罵りを加へるだらう――私はそういふ光景を自分の上に想像して、吾ながらの生気を呼び反したいといふやうな憐れな状態だつた。
「然し、何ういふわけで――」
 と私は最も横柄な口調で唸らずには居られなかつた。「特に僕の姿にばかり、君は飛んでもない興味を持たうとするんだい。実に迷惑だな――」
「何ういふわけか――」
 と彼は益々弱々しく首垂れるばかりだつた。「見ると全く変哲もない顔なんだが――僕はあなたが憤つたり笑つたりする時に、その顔が何んな風に動くかと……何とも失礼な云ひぶんで申しわけありませんが、兎も角、云はせて下さい――はぢめて遇つた時から、不意とそんな考へを持ちはぢめたのです、ところが、あなたは笑つても憤つても、声だけで顔はちつとも変らないんです、空々しいと云へばそれまでだが、考へて見るとわたしは、そんな顔といふものにこれまで出遇つたためしがありません――それにしても、もと/\あんたはそんな風だつたんでせうか? 若しそうだとすれば得難い珍品だ、何にも動きのない顔にこそ、いろいろな動きの顔かたちが想像出来るものなのです。」
 益々妙なことばかりを云ふ奴だ! と私は気色を悪くしたが、若し彼の云ふ通りだとすると、自分にしろそんな人間の顔には接したこともない――と思はれた。
「神経衰弱のせゐだよ。」
 と私は云つた。笑ひ声だけは、クワツ/\とひゞいて、寧ろ私は彼のに似てゐるとは思つたが、その他の場合で、そんなに自分の顔つきが白々しいものとは考へられもしなかつた。もと/\自分は堪え性のない感情家で、泣いたり笑つたりの表情までが激しいたちだつたが、いつの間にそんな風に変つてゐたのか思ひも寄らなかつた。さう思つて見ると何うも近頃、笑つても、泣いても、心底から感情に支配される如き思ひもなく、空々しい歎きの煙りにうろたへてゐるばかりの気がするのであつた。
「御面師だけあつて、妙なところに気を留めたもんだね。幸ひ僕が神経衰弱なんで、反つてそんな、君の云ふことに耳を傾けたりするんだが、普通の人が聞いたら気狂ひの寝言だらうよ。」
「それあ知つたことぢやないが――今晩はひとつはなしついでに、もう少しつき合つて下さいませんか。」
「厭なこつた、馬鹿/\しい!」
 私は、袖をつかまうとした彼の腕を激しく振払つた。
「そんなことを仰言らずに、ほんのもう一時間でもつき合つて下さいよ。あなたは、これにこりて屹度もう此処にはいらつしやらないに違ひありません。……残念なんだ。」
「無論、来ないよ。」
「あゝ、云ふんぢやなかつたな!」
 彼はさも/\落胆さうに息を吐いた。その歎声が如何にも真に迫つて切なさうだつた。内容をおもへば腹が立つだけだつたが、何は兎もあれ見ず知らずの男が、自分にそんなにも熱心な関心を持つたかとおもふと、私は余りにも無稽な奇抜さを抱いた。
「君を怕れて来ないといふばかりでなく、僕は間もなく田舎へ転地しなければならないんだよ。」
 私はついほんとうのことを口にした。
「田舎といふと……?」
「小田原――」
 私は下向きながら答へた。彼は是非とも宛名を知らせて呉れと諾かなかつた。それは故郷とは云ふものゝ、めあての家も未だあたりがなかつたので、私は駅前の本屋を気付にして、彼の手帳に名前を誌した。
 二三日経つて私は大崎のアパートを引きあげた。
 私は町端れの家から、一丁場を汽車に乗つて河のほとりの農家の離れへ通ひ詰めてゐたが、空しい日ばかりがつゞいてゐた。――あたりはもう蛍の飛び交ふ夏景色であつた。私は、自分が小説作家であるといふ考へを放擲しなければならぬと考へた。私は、あれらの惨めな冬から春へかけて、小説を書かうとして苦しむがために二重に制作を為し損つてゐた自分の姿を幻灯のやうに思ひ出すだけであつた。私は二三冊の書物と、手提ランプを携へて毎朝早く河のほとりへ通ひ詰めて、きまり好く夕暮時に町へ戻つてゐたが、農家の厩屋で馬を眺めるだけで一日を終ることが珍らしくなかつた。
「何うせ何も出来ないからには、せめて時間だけを正確にして、健康をとり戻さう。」
 私は停車場のベンチに凭つて、そんなことを声に出して呟くのだが、そんな有閑人の如き行動は一刻もゆるされぬ状態なので、落着かうとすればするほど背後から吹きまくられる烈風のために、飛び散りさうだつた。無意な姿であればあるほど、胸のうちの嵐は目眩むばかりに吹きまくつた。
「あツ――もし/\……あツ、やつぱりそうだつた!」
 そんな声で私は目を開くと、ひとりの無帽の、角帯に黒つぽいよれよれの素袷を着流した男が、私の眼上に枯木のやうに突ツ立つたまゝ眼ばたきもせずに私の顔を見降してゐた。あの御面師だつたのだが、稍しばらく私は彼と思ひ出せなかつた。
「随分、探しました……」
 と彼は手提袋を私の傍らに置いて、
「突然過ぎて何とも云ひやうもないんですが――」
 彼は身の振り方に迷つてゐるらしかつたのである。仕事が一つ出来あがるまで、何処かの宿なりと紹介して欲しいといふのであつた。――私は速座に、
「僕の借りてゐる部屋に来給へ――」
 と応へた。それに私は稍人に好意を感ずると酔つた紛れには大変に度量の広いやうなことを口走る悪癖があつたから、おそらくこの人にも大層なことを喋舌つたのだらうと思つた。その時まで私は、東京で遇つた時の彼のことまでを忘れてゐたくらひだつたのだが、私は如何にも思ひがけない旧知にでも出遇つたやうな悦びを感じて、
「さあ、これから一処に行きませう。僕は毎朝この時間で、河のふちの仕事部屋へ通つてゐるんです。」
 などと奇妙にうき/\と元気づきながら、切符を買つたり、朝飯はこの頃はいつもこの汽車の弁当だとか、
「田舎には夜通し起きてゐるやうな、あんな家がないんで、はぢめのうちは途方に暮れたが……」
 などと吾ながら何時にも覚えたこともない饒舌振りだつた。私はいつもいんねんもない人に対しては恬淡になれぬたちなのにも関はらず、尾羽打ち枯した彼の姿を見れば見るほど愛惜を覚ゆるのであつた。
「ピーツと出るかとおもふと、直ぐにこの次で降りるんですよ。カモノミヤといふ駅――来る時には気づきもしなかつたでせう。だから余つ程手つとり早くしないと、飯を喰ふ間もありませんぜ。ところが僕はすつかり慣れてしまつてね、恰度汽車が止る間際にぴつたりと弁当を仕舞ひ終へるといふ芸当が、それはもうあざやかなもので……」
 そんなことを喋つてゐるうちに、飯を喰ふ間もなく次の駅だつた。
「弁当などにしなくつても、あたしは自炊には慣れてゐるから――」
 彼は、天涯の孤独者であることをはなし、だが屡々あゝいふ遊里で私に出遇つたとは云ふものゝ、それは夜眠れぬために、ふらふらと出歩いたまでゞ嘗て青楼などにあがつたゝめしもない……。
「まつたくもうそんな心の余猶なんてある筈もなく……」
 彼は私が訊ねもしないのに、切りとそんな弁解めいたことを口走つたりした。
 眼ばかりが、らんらんと光つてゐる男だつた。私は明るみの中を歩く彼の姿を、はじめて眺めた。前こゞみにのめり工合の細く骨張つた肩先きを、物を言ふ毎に角度をつけて振り向くと、おこつた蟷螂に似てゐた。
「この河のふちを半みちも歩かなければならないんですよ。」
「さしづめ、これは河童だな…‥」
 彼は、片方に弁当の折、片方に仕事道具らしい手提袋をぶらさげた両腕を、二つの提灯でも持つたやうにさゝげて、田甫道をすたすたと先へ立つた。
 恰度|離室《はなれ》が六畳八畳の二間なので、私はもと/\からの南向きの六畳に、彼は西向きの部屋に、わかれた。
 私は夜になつても町へ戻らぬ日がつゞきはぢめた。――仕事部屋に引き籠つてゐる彼は、屡々ひとりで鴉のやうなワラヒ声をたてるのであつた。
 私は襖越しに彼の鑿の音を聞きながら夜をこめて机に向つてゐた。――私は、日記を書くより他に術がなかつた。
「R、非常なる酒に酔ひて現れ、隣り村の茶屋へ吾を誘ふ。吾は一滴の酒も飲めぬものなり、Rは、吾を指して自殺の怕れが感ぜられると云ひたり。」
 私の日記にはそんな個所があつた。Rといふのは叔父である。
「Rの車に送られて部屋に戻ると、隣室よりは鑿の音切りなり。その音にせかれて机に向ふものゝ、Rに対して決して思ひ切つたことの云へぬ自分の意久地なさのみが省みられて憮然たるばかりなり。御面師と共に旅立ちたいものよ。」
「Rの叔母が来て泣く。Rの行状に関してなり。叔母はもう五年来Rと別居してゐるといふ。K村のRの家へ叔母を案内する。大勢の親類のうちで、やさしい心をもつてゐる者は、お前さんひとりだと云つて叔母はみちみちも泣き止まず、自分は唇を噛むおもひ――。Rの家の前で叔母と別れる。やさしい心だなどと云はれるのは斯んなにも切ないものかとおもふと、そゞろに自棄を覚ゆるなり。」
「またRが来る。非常に酔つてゐる。思ひあまることがあるなら何事でも相談しなければいけぬと云ふのだが、人に云ふべき類ひの煩悶はないのだ。此処は自分の仕事部屋だから酔ふた人に来られるのは迷惑だ! と、たつたこれだけのことさへ云へぬのは何うしたといふことであらう。」
「作家志望だと称する泥酔の佐田某なる老村吏が現れて、最もあやふやな自然主義の主張を喚きたてた。猥雑聴くに堪えざるものであつた。或る時の吾酔態にも似たるかと慄然たり。」
「町から来たる妻に、口を極めて罵らる。何故に多くの縁者を振り棄てぬのか? といふのであつた。吾に生活能力の欠けたるは、その間の怯堕がわざはひする所以なりと非難の声尽きず。多くの縁者の吾を軽蔑すること夥しき由、かゝる渦中に再び戻りたる吾が所業の不甲斐なさを妻は哭して止まず。」
「R叔母来りて、先日送られしものゝRの行衛皆目不明にて未だ会はざりしといふ。此処に同居を促したれど、吾が身辺のうそ寒き気はひを察してか諾かず、深更に至りて町へ戻り行く。劇中の人物にも似たる悄々たるさまなり。」
「K叔母来りて、吾と吾が母との同居をすゝむるなり。母は既に零落して、子の帰来を待つ由なりと伝ふれど、K叔母の所存こそ信じ難きものなり。R叔母の言とおそらく反対にて、R叔母に依ると、凡そK叔母の言たるや、吾が母の意志には非ずして、K叔母は寧ろ吾が心を苛立たしめて(以下五行抹殺……筆者)一家の団欒を希ふはもとよりなり。されど、この心の、母を敬ひ得ざる不幸の、怕るべき佗しさの(以下四行抹殺……筆者)所詮、吾には母を放擲してまでの放浪性は抱けぬものならむ。その零落こそを待ちて、吾はすゝみて扶養の任をはたしたき念なり。」
 日記に現はるゝ私の片言は、何処をひらいて見ても惨憺としてゐた。
 或る日御面師は、Rの振舞ひで、よろよろと酔つて戻つた。
「何だつて、もうお好み次第のものをつくつて御覧にいれます。それについては、是非ともひとつあなたには、これまでのお礼のためにお贈りいたしたいんですが……」
「折角だが僕は貰つても仕方がありませんから、Rさんが世話をして呉れると云ふんならそつちへ売つた方が好いでせう。」
「いえ/\……」
 と彼は行儀好く手をついて首を振るのであつた。「是非ともこの部屋に、わたしの仕事を一つ遺させて戴きたいんで……」
 彼がそんなことをくど/\と、申し立てはぢめると、私は何故か急に腹が立つて来て、
「Rのうちへ行つて呉れ。僕は、やはりひとり
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