にそんな風に変つてゐたのか思ひも寄らなかつた。さう思つて見ると何うも近頃、笑つても、泣いても、心底から感情に支配される如き思ひもなく、空々しい歎きの煙りにうろたへてゐるばかりの気がするのであつた。
「御面師だけあつて、妙なところに気を留めたもんだね。幸ひ僕が神経衰弱なんで、反つてそんな、君の云ふことに耳を傾けたりするんだが、普通の人が聞いたら気狂ひの寝言だらうよ。」
「それあ知つたことぢやないが――今晩はひとつはなしついでに、もう少しつき合つて下さいませんか。」
「厭なこつた、馬鹿/\しい!」
 私は、袖をつかまうとした彼の腕を激しく振払つた。
「そんなことを仰言らずに、ほんのもう一時間でもつき合つて下さいよ。あなたは、これにこりて屹度もう此処にはいらつしやらないに違ひありません。……残念なんだ。」
「無論、来ないよ。」
「あゝ、云ふんぢやなかつたな!」
 彼はさも/\落胆さうに息を吐いた。その歎声が如何にも真に迫つて切なさうだつた。内容をおもへば腹が立つだけだつたが、何は兎もあれ見ず知らずの男が、自分にそんなにも熱心な関心を持つたかとおもふと、私は余りにも無稽な奇抜さを抱いた。
「君を怕れて来ないといふばかりでなく、僕は間もなく田舎へ転地しなければならないんだよ。」
 私はついほんとうのことを口にした。
「田舎といふと……?」
「小田原――」
 私は下向きながら答へた。彼は是非とも宛名を知らせて呉れと諾かなかつた。それは故郷とは云ふものゝ、めあての家も未だあたりがなかつたので、私は駅前の本屋を気付にして、彼の手帳に名前を誌した。
 二三日経つて私は大崎のアパートを引きあげた。
 私は町端れの家から、一丁場を汽車に乗つて河のほとりの農家の離れへ通ひ詰めてゐたが、空しい日ばかりがつゞいてゐた。――あたりはもう蛍の飛び交ふ夏景色であつた。私は、自分が小説作家であるといふ考へを放擲しなければならぬと考へた。私は、あれらの惨めな冬から春へかけて、小説を書かうとして苦しむがために二重に制作を為し損つてゐた自分の姿を幻灯のやうに思ひ出すだけであつた。私は二三冊の書物と、手提ランプを携へて毎朝早く河のほとりへ通ひ詰めて、きまり好く夕暮時に町へ戻つてゐたが、農家の厩屋で馬を眺めるだけで一日を終ることが珍らしくなかつた。
「何うせ何も出来ないからには、せめて時間だけを正確にして、健康をとり戻さう。」
 私は停車場のベンチに凭つて、そんなことを声に出して呟くのだが、そんな有閑人の如き行動は一刻もゆるされぬ状態なので、落着かうとすればするほど背後から吹きまくられる烈風のために、飛び散りさうだつた。無意な姿であればあるほど、胸のうちの嵐は目眩むばかりに吹きまくつた。
「あツ――もし/\……あツ、やつぱりそうだつた!」
 そんな声で私は目を開くと、ひとりの無帽の、角帯に黒つぽいよれよれの素袷を着流した男が、私の眼上に枯木のやうに突ツ立つたまゝ眼ばたきもせずに私の顔を見降してゐた。あの御面師だつたのだが、稍しばらく私は彼と思ひ出せなかつた。
「随分、探しました……」
 と彼は手提袋を私の傍らに置いて、
「突然過ぎて何とも云ひやうもないんですが――」
 彼は身の振り方に迷つてゐるらしかつたのである。仕事が一つ出来あがるまで、何処かの宿なりと紹介して欲しいといふのであつた。――私は速座に、
「僕の借りてゐる部屋に来給へ――」
 と応へた。それに私は稍人に好意を感ずると酔つた紛れには大変に度量の広いやうなことを口走る悪癖があつたから、おそらくこの人にも大層なことを喋舌つたのだらうと思つた。その時まで私は、東京で遇つた時の彼のことまでを忘れてゐたくらひだつたのだが、私は如何にも思ひがけない旧知にでも出遇つたやうな悦びを感じて、
「さあ、これから一処に行きませう。僕は毎朝この時間で、河のふちの仕事部屋へ通つてゐるんです。」
 などと奇妙にうき/\と元気づきながら、切符を買つたり、朝飯はこの頃はいつもこの汽車の弁当だとか、
「田舎には夜通し起きてゐるやうな、あんな家がないんで、はぢめのうちは途方に暮れたが……」
 などと吾ながら何時にも覚えたこともない饒舌振りだつた。私はいつもいんねんもない人に対しては恬淡になれぬたちなのにも関はらず、尾羽打ち枯した彼の姿を見れば見るほど愛惜を覚ゆるのであつた。
「ピーツと出るかとおもふと、直ぐにこの次で降りるんですよ。カモノミヤといふ駅――来る時には気づきもしなかつたでせう。だから余つ程手つとり早くしないと、飯を喰ふ間もありませんぜ。ところが僕はすつかり慣れてしまつてね、恰度汽車が止る間際にぴつたりと弁当を仕舞ひ終へるといふ芸当が、それはもうあざやかなもので……」
 そんなことを喋つてゐるうちに、飯を喰ふ間もなく次の駅だつた。

前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング