のであつた。――「きくまでは決して動きませんよ。」
「困つたなあ……」
と私は大声で叫んだ。斯んな途方もない、斯んな仰山な、加けに厭に意味あり気な――何といふ馬鹿々々しいことだらうと私は苛立つたが、不図彼が私の面上に注いでゐる凝然たる視線に気づくと、わけもなく抗し難いきつさきに似たものに貫かれて、もう言葉もなくなつてゐた。
そして私は、つぶやくともなしに、
「俺も一日も早く、小説家に逆戻りをしなければならんぞ。――一体、何をまご/\してゐたんだらう。」
などといふ声を出してゐた。
「こつちも漸く、あぶらがのつて来たところだから……」
彼もつぶやくのであつた。
夜になれば、あたりはもう全くの夜中の感じで、Rが酔つた声でも挙げて繰り込んで来るより他は、滅多に人の声もない青畑の一隅である。――私は、暗闇に飛んでゐる蛍の点々たる光りをかぞえてゐた。肉親の人々の顔かたちがいくつとなく浮びあがり、その中にはもうこの世にゐない人達の、たゞ呆然と、とり済した御面が、ありありと入り交つてゐた。
私は、御面師の腕で彫まれるあれこれの御面のさまざまを、眼の先に描き出した。そして、在りのまゝなる人間の顔のつまらなさに引き換へて、仮面などといふものゝ、絶対に誇張された表情の怪美に眼を視張つた。自分の作風は、太い線をもつて滑稽《バロク》の段階に鮮明でありたいものだ! と夜空へ向つて眼を据えた。
「大層な蛍ですな!」
こちらの顔ばかり視詰めてゐるのかとばかり私はおもつて、気拙がつてゐたところが、その時彼は舌を巻いて蛍の美観を嘆じた。
底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
2002(平成14)年7月20日初版第1刷発行
初出:「文學界」文圃堂書店
1934(昭和9)年7月1日発行
入力:宮元淳一
校正:伊藤時也
2006年8月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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